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『おくりびと』のライバル『戦場でワルツを』を観る

2009-12-10 03:23:26 | 映画評論
 友人から電話があって、「おまえ、『戦場でワルツを』って映画観たか?」という。観たい映画の候補リストには入っていたがあまり上位ではなかったので、正直その旨をいうと、「あれは凄いぞ。機会があれば観たら」という。
 彼の感性を評価し信頼している私は、さっそく観に出かけた。



 珍しい映画である。
 内容はほぼドキュメンタリーなのに、映像はアニメーションなのである。
 これには十分な理由がある。追憶の戦場シーンなどはアニメならではの臨場感を持っているし、この映画が記憶の欠落を埋めるものだとしたら、その心理に刻み込まれた曖昧でなおかつ幻想的なシーンは、実写では不可能なのであろう。

 主人公は、かつてレバノン侵攻作戦に参加したイスラエル軍の兵士である。
 彼は、同様にこの作戦に参加した友人の後遺症とも思われる夢の話を聞くのだが、彼自身、レバノン戦線で体験した筈の事柄の記憶を全くなくしている。
 ここから彼の、レバノンでの記憶を取り戻す旅が始まる。彼は、レバノンへ同行したはずの人々を訪れ、共有する記憶を取り戻そうとする。

 このくだりは、古い映画ファンならご存じの『舞踏会の手帳』を思わせるが、聞き出す話は遙かに壮絶で重いものである。
 何人かの人たちに会ううちに、彼の記憶はジグソーパズルのピースをはめ込むように次第に明らかになる。
 そしてそれらが全て記憶に戻るとき、アニメは一転して実写の映像へと転じる。この実写シーンは最後のほんの何分かなのだが、彼の記憶から何が遠ざけられていたか、そしてそれがなぜ遠ざけられていたかの理由が全て明らかになる。

 これへの評価は敢えていうまい。
 世界には、過酷な状況を背負い、今なお異常な事態が日常化している場所が多々ある。そして、そこで展開される事態は、その全てをひとが記憶として抱え込むにはあまりにも壮絶で重い。
 それら記憶が抱え込めない余剰は、それ自体ひとの記憶機能を破壊し、ひとそのものを蝕んだりする。戦争後遺症などのPTSDがそれである。

 問題は、そうした状況からいかに人間を遠ざけておけるかである。
 殺戮の連鎖としての戦争、極端な貧困、それらを糧に繁殖する止めどもない暴力と人間そのものの破壊、一見、この平和な日本とは無縁に見える出来事が、グローバリゼーションという世界の同時にして統一的な事象の中では、全て見えざる糸で繋がっているのだ。
 対岸の火事は、実は私たちが火を付けたものかも知れないのだ。

 ちなみにこの映画は、第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞した『おくりびと』と最後まで競り合った作品である。
 『おくりびと』の主演もっくんは、「正直今でも、アカデミー本命はこの作品だと思っている」といっている。
 そういうもっくんを偉いと思い見直した次第である。

コメント (1)
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