*写真は例によって本文と関係ありません。北米原産のカルミアという花で、コネチカット州の州花だそうです。
迷路に突き当たったとき、どんな行為が考えられるだろうか。
とにかくがむしゃらに進んでゆくというのもあるだろう。
それに近いのがいろいろ試行錯誤をしてみるというものかもしれない。
慎重なものとしては、一度出発点に立ち返ってみるということだろうか。
これらの試みのどれを正解として選ぶべきかは一概にはいえない。
それぞれが成功の確率と、同様により悲惨な結果という確率をもっている。
上に述べたそれぞれの方法は、迷路のある同一の平面においての判断である。
しかし、この迷路の比喩に従うなら、迷路のある地平とは異なる次元からこれを見るというのはどうだろう。
例えば、上空から迷路を見渡すということである。
いうならば、メタレベルに立つということである。
この上空から見るというのは遊園地の迷路では確実に有効性をもつだろう。
どこでだったか記憶にないが、ある遊園地では、まあまあの規模の迷路がしつらえられている傍らにやぐらが立っていて、そこへ登ると迷路が見渡せるようになっていた。
子どもがその迷路で迷っているのを、やぐらの上からお母さんが、「Aチャン、違うッ!そこは、右、右ッ。お箸もつ方!」と叫んでいたほほえましい光景を記憶している。
しかし、これはあくまでも比喩にしか過ぎない。
迷路そのものが平面であるとは限らないし、そもそも、迷路そのものが遊園地のそれのように、かならず出口をもつとは限らないのだから。
問題は具体的な迷路そのものではなく、迷路という比喩を借りた私自身の迷いであるから、上空から見ることなどはできないのだ。
しかしこの場合にでも、メタレベルに立つことには一定の意味があるだろう。
ようするに、私が進路に迷っている事象そのものをいったん離れて、それと向き合っている私の姿勢、私の考え方などを反省的に捉え返すということだ。
時としてはそれでもって問題そのものが解消してしまうこともある。
その問題が取るに足りないものであることが判明したり、そこで迷う私自身の対応の愚かさが自分で了解できるようなときである。
もちろん、そんなことでは解消しないことがほとんどだし、出口へのヒントすらつかめないことが多いだろう。
しかし、メタレベルというにはおこがましいかも知れないが、迷っている自分と、それを離れて見つめる自分とを二つの極として想定しながら、その間を交互に行き来しつつ、ジグザグに、這うように進むしかないのではと思う。
ストンと悟りへ至るような器用なことができない私には、それが唯一の道であるように思われるのだ。
迷路に突き当たったとき、どんな行為が考えられるだろうか。
とにかくがむしゃらに進んでゆくというのもあるだろう。
それに近いのがいろいろ試行錯誤をしてみるというものかもしれない。
慎重なものとしては、一度出発点に立ち返ってみるということだろうか。
これらの試みのどれを正解として選ぶべきかは一概にはいえない。
それぞれが成功の確率と、同様により悲惨な結果という確率をもっている。
上に述べたそれぞれの方法は、迷路のある同一の平面においての判断である。
しかし、この迷路の比喩に従うなら、迷路のある地平とは異なる次元からこれを見るというのはどうだろう。
例えば、上空から迷路を見渡すということである。
いうならば、メタレベルに立つということである。
この上空から見るというのは遊園地の迷路では確実に有効性をもつだろう。
どこでだったか記憶にないが、ある遊園地では、まあまあの規模の迷路がしつらえられている傍らにやぐらが立っていて、そこへ登ると迷路が見渡せるようになっていた。
子どもがその迷路で迷っているのを、やぐらの上からお母さんが、「Aチャン、違うッ!そこは、右、右ッ。お箸もつ方!」と叫んでいたほほえましい光景を記憶している。
しかし、これはあくまでも比喩にしか過ぎない。
迷路そのものが平面であるとは限らないし、そもそも、迷路そのものが遊園地のそれのように、かならず出口をもつとは限らないのだから。
問題は具体的な迷路そのものではなく、迷路という比喩を借りた私自身の迷いであるから、上空から見ることなどはできないのだ。
しかしこの場合にでも、メタレベルに立つことには一定の意味があるだろう。
ようするに、私が進路に迷っている事象そのものをいったん離れて、それと向き合っている私の姿勢、私の考え方などを反省的に捉え返すということだ。
時としてはそれでもって問題そのものが解消してしまうこともある。
その問題が取るに足りないものであることが判明したり、そこで迷う私自身の対応の愚かさが自分で了解できるようなときである。
もちろん、そんなことでは解消しないことがほとんどだし、出口へのヒントすらつかめないことが多いだろう。
しかし、メタレベルというにはおこがましいかも知れないが、迷っている自分と、それを離れて見つめる自分とを二つの極として想定しながら、その間を交互に行き来しつつ、ジグザグに、這うように進むしかないのではと思う。
ストンと悟りへ至るような器用なことができない私には、それが唯一の道であるように思われるのだ。