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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

アシュケナージとタブレット、そしてアリとキリギリス

2016-05-10 02:20:36 | 音楽を聴く
 アシュケナージュ親子による「ピアノ・デュオ・コンサートを聴いた(@岐阜サラマンカホール)。父のウラディミールは映像では何度か観ているし、媒体を通じてその演奏は聴いているが、ライブははじめてである。息子のヴォフカもピアニストであることは知っていたが、たぶん聴くのははじめてである。

 父・ウラディミールとの最初の出会いは映像ではあったがとてもよく覚えている。
 1991年、モーツアルト没後200年の折、私はそれまで30年間働いてきた自分にボーナスを出すつもりで、インスブルッグ・ウィーン・ザルツブルグヘ10日間の旅にでかけた。それは私にとって50歳代にしてはじめての海外旅行だった。
 旅の主体はザルツブルグで、ここに約一週間滞在し、三つのコンサートと二つのオペラに接することができた。

           

 その旅の2日目、ウィーン・マリオットホテルに宿泊した。コンサートのチケット込みのパックツアーは、ほとんどが夫妻や親子などの二人連れで、一人旅の私は心細いことこの上なかったが、それでも、初日、インスブルッグのケラー(居酒屋)へ単身で乗り込んだくそ度胸を奮って、今度はトラムの走る環状線を挟んで向かい側にある市立公園でのウィンナー・ワルツの野外公演に乗り込んだ。
 どうやら、ワンコイン程度のドリンクの注文で入場できるようで、唄ありバレエありの楽しい演奏を堪能してホテルに戻った。

 しかし、深夜まで営業していた居酒屋稼業が身についているせいで、そんなに簡単に眠れるものではない。そこで恐る恐る(なんで恐れるのだ?)TVをつけてみた。そのとき、目に飛び込んだのが、ピアノを弾きながら指揮をする、いわゆる弾き振りをしている、西洋人にしてはやや小柄なピアニストの映像だった。彼は、ピアノから身を乗り出すようにしてオケを指揮していた。
 曲はモーツァルトのピアノ協奏曲第24番(K491)であった。で、この人は?と見つめていると、しばらくしてテロップが出て、かろうじて読めた横文字がアシュケナージュだった。

 ほう、これがかのアシュケナージュかと観つづけて、演奏が終わるころ、やっと睡魔の訪問を迎えることができた。

           

 その実物に逢えた。ウィーンのホテルのTVで出会ってからちょうど四分の一世紀を経ての出会いであった。やはり小柄だった。息子のヴォフカの肩までぐらいしかない。1937年生れだから、私より一歳年長だ。25年前と比べると、頭は真っ白になってしまっているが、足取りなどは矍鑠としている。
 演奏もしっかりしている。ラフマニノフの交響的舞曲 作品45a は長年入れ込んできた作曲家の作品だけに圧巻だった。この曲は一般的にはオーケストラ版の方が演奏機会が多いのではないだろうか。ただし、ラフマニノフ自身は、まずピアノ・デュオ版を書き、後にオーケストラ版を書いたといわれている。
 その意味ではこれが原曲なのかもしれない。

 親子のデュオならではの微笑ましい場面もあった。アンコールの演奏で、親父・ウラディミールは息子・ヴォフカとの呼吸をじゅうぶん合わせることなく、勝手に弾きだしてしまった。ヴォフカが待ったをかけ演奏はやり直されたのだが、その間の親子のジェスチャーのやりとりなどは会場の笑いを誘うものであった。

 このコンサートで驚いたことがある。それは楽譜の問題であるが、親父・ウラディミールは従来の紙に印字した楽譜を用い、それをそばに控えた譜めくりがめくってゆくのだが、息子・ヴォフカの方の楽譜は紙に印字されたものではなく、タブレットによっていたことだ。
 コンサート経験はさほど多くはないが、タブレット端末を使った楽譜は初めての経験だった。

 ただし、あのサイズのタブレットでは問題があると思う。ようするに表示面積の関係で、譜めくりが頻繁になるのだ。息子・ヴォフカについた譜めくりは、親父・ウラディミールの譜めくりに対し、約三倍の頻度でそれを行っていた。ただし、冊子をめくるのでななく、画面の「次へ」にタッチするだけだから簡単ではある。とはいえ、あまり頻繁なのはやはり視覚的に邪魔になり、音楽に没頭できない。

 こうした IT 化は今後増えるだろうし、避けられないかもしれない。しかし、どうせ IT 化するなら、譜めくりが要らず、その箇所へ来たら自動的に画面が変わるぐらいのことはできそうに思う。
 誰か、このアイディアを買ってはくれないだろうか。

           

 今月はあと、樫本大進のトリオ、そして来月は五嶋みどりのチケットを確保している。
 残された余生を、キリギリスのように私にとっての快楽のために使いたい。
 その結果が、アリの餌食になっても一向にかまわない。
 モーツァルトのように、ロココ的享楽を生きたいと思っている。





コメント
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