5月の末日の午後、所要があって岐阜市の役場の南部センターへ自転車ででかけた。
このセンターは私の出身中学校と隣接している。役場へゆく途中、何やら賑やかなのでふとグランドを見やると、どうやら運動会らしい。
それを横目に役場へ行き、いくばくかの時間を費やして所要を済ませ、中学校へ立ち寄ってみる。先程までの喧騒に比べてどうも静かだなと思ったら、どうやら競技は全て終わり、閉会式のようだ。でもせっかく来たのだからとそれを見物した。

どうも、全校生徒で数百人ぐらいらしい。やはり見物していた同窓生らしい二人組の女の子に声をかけてみる。
「いまは一学年、何クラスあるの?」
「4から5クラスぐらいかな」
ついでだから、「私もここの同窓生だよ」といってみる。
「へ~、そうなの」
と、何か珍しいモノを見るような表情。
「私の入学した年にはここは火事で半分ぐらい燃えてしまって、残った校舎を使って午前・午後との二部授業だったんだよ」
と、いわずもがなのことをいっていってみる。するとその1人が、
「うちの爺ちゃんもそんなことをいってた」
という反応。
「じゃ、あなたの爺ちゃんと私は同じぐらいかな」
「ううん、爺ちゃんはそれを知ってただけで、入学した頃にはもう新しい校舎が建ってたんだって」
だろうなあ。私がここへ入学したのはいまから65年前だものなぁ。

私のときには一学級50人ぐらいで、9クラスあった。
だから一学年で、いまの全校生徒数に迫っていたわけだ。
それが、娘の時代には大変だった。別にベビーブームではなかったが、高度成長でこの学区の岐阜の南西部地域が急速に都市化した時代だったからである。
なんと、一学年のクラス数は19! これでは学校運営もままならない。やがてこの学区は二つに分断され、今に至っている。

舟田町という地名が示すように、学校のすぐ南は開けた田園地帯であった。いまは家並みが建て込んで、もう少し南が田園である。
運動会ということで、思い出したのが当時の新聞部の活躍である。運動会の模様を速報で出していた。いまのように、パソコンで打ち込んでプリンターという時代ではないから、ガリ版を切り、それを謄写印刷にする。私は新聞部ではなかったが、担任が新聞部の顧問だったこともあって、その配布を手伝ったりした。
三年の運動会の最後、新聞部が出した運動会号外の最終号には、「かくて少年の日は終わりぬ」という大きな文字が踊っていた。
たしか、その頃の運動会は秋だった。終わってから、夕日を浴びながら帰途につき、そうなんだ、もう、少年の日は終わったのだと自分にいいきかせていたことを思い出した。

帰途、そんな回想に浸りながら、できるだけ人家のないところを選んで自転車を進めた。いささか感傷的になってしまったようだ。あの遠い昔の、本当に少年であった時代のように。
このセンターは私の出身中学校と隣接している。役場へゆく途中、何やら賑やかなのでふとグランドを見やると、どうやら運動会らしい。
それを横目に役場へ行き、いくばくかの時間を費やして所要を済ませ、中学校へ立ち寄ってみる。先程までの喧騒に比べてどうも静かだなと思ったら、どうやら競技は全て終わり、閉会式のようだ。でもせっかく来たのだからとそれを見物した。

どうも、全校生徒で数百人ぐらいらしい。やはり見物していた同窓生らしい二人組の女の子に声をかけてみる。
「いまは一学年、何クラスあるの?」
「4から5クラスぐらいかな」
ついでだから、「私もここの同窓生だよ」といってみる。
「へ~、そうなの」
と、何か珍しいモノを見るような表情。
「私の入学した年にはここは火事で半分ぐらい燃えてしまって、残った校舎を使って午前・午後との二部授業だったんだよ」
と、いわずもがなのことをいっていってみる。するとその1人が、
「うちの爺ちゃんもそんなことをいってた」
という反応。
「じゃ、あなたの爺ちゃんと私は同じぐらいかな」
「ううん、爺ちゃんはそれを知ってただけで、入学した頃にはもう新しい校舎が建ってたんだって」
だろうなあ。私がここへ入学したのはいまから65年前だものなぁ。

私のときには一学級50人ぐらいで、9クラスあった。
だから一学年で、いまの全校生徒数に迫っていたわけだ。
それが、娘の時代には大変だった。別にベビーブームではなかったが、高度成長でこの学区の岐阜の南西部地域が急速に都市化した時代だったからである。
なんと、一学年のクラス数は19! これでは学校運営もままならない。やがてこの学区は二つに分断され、今に至っている。

舟田町という地名が示すように、学校のすぐ南は開けた田園地帯であった。いまは家並みが建て込んで、もう少し南が田園である。
運動会ということで、思い出したのが当時の新聞部の活躍である。運動会の模様を速報で出していた。いまのように、パソコンで打ち込んでプリンターという時代ではないから、ガリ版を切り、それを謄写印刷にする。私は新聞部ではなかったが、担任が新聞部の顧問だったこともあって、その配布を手伝ったりした。
三年の運動会の最後、新聞部が出した運動会号外の最終号には、「かくて少年の日は終わりぬ」という大きな文字が踊っていた。
たしか、その頃の運動会は秋だった。終わってから、夕日を浴びながら帰途につき、そうなんだ、もう、少年の日は終わったのだと自分にいいきかせていたことを思い出した。

帰途、そんな回想に浸りながら、できるだけ人家のないところを選んで自転車を進めた。いささか感傷的になってしまったようだ。あの遠い昔の、本当に少年であった時代のように。