凄まじい映画である。
監督のポン・ジュノに関しては、10年前ぐらいに観た『母なる証明』で、とても凄まじい映画を作る人だなぁと思ったのだが、今回の映画ではその凄まじさが半端なく幅広い。
以下、できるだけネタバレにならないようにそれについての感想を述べることとしよう。
それはホームドラマであり、シリアスな社会問題であり、コメディであり、ミステリーであり、心理サスペンスであり、ホラーであり、バイオレンスであり、ともかくそれらのすべてを含み込んで凄まじい。
私がここでいう「凄まじい」は、衝撃的という意味である。
背景には格差社会がある。
近年、この格差を意識的に捉えた映画としては、『わたしは、ダニエル・ブレイク』や『家族を想うとき』のケン・ローチを思い浮かべる。
ケン・ローチのこれらの作品は、いわば直球勝負で、問題の提示や経過もリアルで、ストレートに核心に迫ってゆく。
これに対して、是枝裕和の『万引き家族』などはその背景に格差社会を意識しているとしても、その表現は変化球で、直接それとして表示はしない。加えて、是枝のものは常に「家族」への問いが背景にある。
ただし、ケン・ローチと是枝に通底するものが外見以上に色濃いのは、昨秋、NHKの「クローズアップ現代」で放映されたこの両者の対談で明らかで、格差社会が彼らの映画作りのバックグラウンドにあることが明言されている。
さて、ボン・ジュノの『パラサイト』であるが、どちらかというと是枝流の変化球ともいえる。事実、その状況設定での是枝との類似性を指摘する向きもあるが、とりたてて強調する点ではないだろう。
格差社会の露出度からいったら、この映画はまさに端的にして明確である。なにしろこの両者、4人全員が失業者で、湿気臭い半地下で暮らす一家と、IT 企業で成り上がり、大邸宅に住まう一家(やはり4人家族とお手伝さん&運転手)とが直接交わり、パラサイトの関係に至るというのだから。
ただし、このパラサイトにはもうひとつの階層というか隠し球が秘められていて、それがこの物語の終焉に大きく絡んでくることになる。
映画の前半は、是枝のそれと似て、コミカルなシーンが続出するが、後半に至り、園子温の『冷たい熱帯魚』や『恋の罪』のように、凄惨な血を見るシーンにも至る。
この映画の二つのキーワードを挙げるとするならば、そのひとつは「階層、ないしは上下の関係性、配置」のようなものといえる。
そしてもうひとつは、通奏低音のようにつきまとう「臭い」だろう。
前者はこの映画の主たるシーンが、下町の半地下室と高台の大邸宅であること、さらにはその邸宅自体が地上階と通常の地下室、そのうえ、核戦争を想定して作られたという秘めたる空間としてのシェルター部分という階層をなしていて、それらが現実の社会的階層の直喩であることは指摘するまでもないだろう。
後者の臭いは、地下特有のすえた現実の匂いであるとともに、格差社会でのその境界を示す象徴的なものでもある。ラスト近くで、父を行動に駆り立てるのは、邸宅の主の臭いについての言及であることもむべなるかなだ。
余談ながら臭いの持つ象徴的な意味合いの強さは、子どもたちのいじめの現場においてもしばしば「臭い」が差異性を際立たせるボキャブラリーであることからもうかがい知れよう。
他にも、IT 社会から隔離された人間の通信手段が、モールス信号であるという対比の面白さ、風水を示唆する石の登場など、この映画にはさまざまな面白いファクターが詰め込まれているようだ。
映画は、思わぬ惨劇を伴って終盤を迎えるのだが、そのアナーキなドタバタともいえる惨劇シーンは、もはや加害者と被害者の識別すら困難なカオスを産み出すだろう。言ってみれば、それに立ち会う私たちは、通常の活劇シーンとは異なり、もはや誰を応援し、誰が助かるべきかもわからないままに立ち尽くすほかはないのだ。
ダラダラとした感想を締めねばなるまい。
映画の終章であるが、これが、たとえ貧しくとも心豊かに互いに支え合って生きればということで終わるとするならば、ひとつの起承転結として安定した結語にはなるのであろうが、それならば凡百の映画に堕するというべきであろう。
ポン・ジュノはそんなふうには終わらせない。
怪我から復帰した息子は、もう一度、格差の出発点である学歴社会に挑み、のし上がることを決意し、さらには、あの大邸宅を手に入れることを夢見る。
映画はいささかの戯画化を含むとはいえ、法における平等という擬制民主主義のもとに隠蔽され、自己責任として不問に付される格差の現実を、まさにドラスティックに垣間見させてくれる。