この書を手にした動機は、普通、「超人たれ!」と説く「強いニーチェ」を連想しがちなのだが、そのタイトルに「弱い」という形容を冠しているからだ。
一つ考えられるのは、唯一無二と決めつけた真理や正義の側(形而上学的立場)に自分を置き、その世界観で自分を律する「強い」人、あるいはそうした真理や正義の体系から自分は疎外され逸脱しているとするいわゆる「強さ」への憧憬を抱くルサンチマンの人、これらを「強い人」ないしは「強い人の陣営」と形容するならば、それを嫌悪し、自分の「生」をあるがままに「諾=ヤー」といって引き受ける二ーチェは「弱い人」になるかもしれない。
しかし、いってみればこれは反語的な表現で、やはり自分の思考を放棄し、既存の体系に依存するしかない人たちは「弱い」のであり、自分の「生」をそうした既存の価値観から解き放つニーチェのような人は「強い」のである。
というようにまとめてしまえば、この書はこれまでのニーチェの解説書と変わるところはない。ああ、やっぱり二ーチェは強い人であり、形而上学的価値観に屈する「強さを装う」人たちがそれらを大上段に振りかざして人々を抑圧したのが、20世紀のナチズムやスターリニズムの歴史であったのだということで終了してしまう。
しかしこの書が、それにとどまらない点があるとしたら、次の二点であろう。
その一つが、ニーチェの妹(エリザベート)が編纂し、『力への意志』または『権力への意志』として、ナチズムに利用されるような民族主義、国家主義、全体主義を導きかねない(実際のところ、エリザベートはナチスの支持者であった)書に仕立てたその遺稿『Wille zur Macht 』を、もう一度解体的に読み直し、そこでのニーチェの思想を別様のものとして掬い上げたことである。
もうひとつは、そこにたち現れたニーチェ像を、東洋哲学の道元などと対比させながら読み込んでゆくところである。私は、東洋哲学に関してはほとんど無知だが、道元の「尽」という概念との突き合わせはわかる気がする。
ようするに、ここに述べた遺稿『Wille zur Macht 』の2つの方面からの読解こそが、著者が従来のニーチェ解釈、人間の解釈に加えた新しいものといえる。そしてそれが、この書のサブタイトル「ニヒリズムからアニマシーへ」が意味するところといえる。
この「アニマシー」というのは聞き慣れない言葉であるが著者の造語だという。その造語はこうだ。普通、アミニズムというのはすべてのものに生命が宿るとし、またアニマシズムは生命があるかどうかは定義できず、偶発的に感じとられることする。そこからアニマシーは偶発的な〈あいだの命〉を感受することだとする。
二ーチェは生命を次のように考える。
*第一の生命 一つ一つの命、このものの命、それ自体の命 生物学的命
*第二の生命 すべての命、乗り越える命、あまねく行き渡る命 超越的生命
*第三の生命 あわいの命、立ち現れる命 リアルな生命
第一のそれはまさに自然の生命である。しかし、その有限でやがて終焉するであろう生命を恐れる人間は、第二のそれ、超越的で永遠の生につながるものとして考える。これは「強い」人間であるとともに、自分はそれから疎外され、本来性を失っているというルサンチマンを抱いた「弱い」人間としても現れる。これはまたニーチェが退けた人間像である。
そこで改めて登場する生が、第三の生命ということになる。「あわいの命」、「立ち現れる命」とあるが、この生は一人の個人のなかには他者と同じ知覚像が多数多様に入り込んでいて、それ故に人は他者に感情移入したり、共感、共苦することが可能になる。いわば私の主体というのはハイブリットで多重的なのである。
それのみか、わたしたちは、動物、モノが持つ他への働きの運動に対応することもできる。それが、先に見た「ニヒリズムからアニマシーへ」のアニマシーに相当する部分である。
ようするに人間は形而上学的超越性(第二の生命)にすがりがちだが、実際には多重的複合的主体であることによって、ヒト、コト、モノの諸関連によって生じるあらゆる生成、生起に立ち会うことが出来るのである。ここにあるのは力をもち、「力への意志」を振りかざす強い人間ではないが、あらゆる力の発現に立ち会うことが出来る人間像である。
しかし、その人間は多重的、複合的、総合的にして混沌である。そして、出来事はそうしたなかで生じる。
結局のところ二ーチェは強いを弱い、弱いを強いと言い換えた哲学者だったといえるようだ。
最後に、『Wille zur Macht 』のなかからというニーチェの言葉を引いておこう。
ひとつのものを設定して生を生きようとする者どもよ その人間的な強い生によって、お前たちはどれほど数多くの人間を殺し、自然を破壊してきたのか すべてはヴィレ(意志)の闘争なのである この闘争の動態を見ることなくして、いたずらに一とか超越とか平和とか理性とか同情とか尊厳などといった虚構を捏造し、そのことによってすべてを破壊しようとしてきた人間どもよ、君たちは自分たちの弱さを知らないのか 君たちが自分たちこそ強いと自認する時、私は逆に弱さを選ぶことにしよう そしてその弱さを、私自身の言葉で「強さ」と呼ぶのだ
*『弱いニーチェ ニヒリズムからアニマシーへ』 小倉紀蔵 筑摩選書
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