この沖縄訪問記を記し始めた折、私のこだわりとして、贖罪と鎮魂を抜きにした訪問はありえないと書いた。
しかし、過去三回、それらしい記述はなく、やはり単なる物見遊山ではないかとお叱りを被るかもしれない。もっともである。
その理由は、今回、案内していただいたコースが、まず一旦北上し、それから南下するコースをたどったからである。つまり、沖縄戦で相対的により激戦地区であったし、いまなお米軍基地などが集中している中部や南部は後半の日程になったからである。
北部で最後に訪れたのは、1975~76年にかけて行われた沖縄国際海洋博跡地に作られた海洋博公園の一角にある「熱帯ドリームセンター」、ようするに南国ならではの熱帯植物園である。
入ってすぐの庭園には、色とりどりのブーゲンビリアンやハイビスカスが咲き乱れ、この島が年中、花の途切れることのないフラワー王国であることを示している。
いくつかの温室には、これまで観たこともない植物群、パンの実やカカオの実なども観られ、ロータス・ポンドには大型の睡蓮や、子どもが乗れるというオオオニバスの葉がどっしりと鎮座している。
水中には何やら黒っぽいしなやかな魚影が。瞬間、ナマズかなと思ったが、それにしてはいくぶんスマートだ。どうやらブラックアロワナの群れらしい。
ところで、この植物園からは、ここへ至る道中、車窓から見え隠れしていた伊江島がとても良く見える。
島の中央付近には、この島のランドマークともいえる、仏骨を収めた仏舎利塔のような岩山(城山=「ぐすやま」と読む 標高172m)がそびえ、それを中心に平坦な地形がみてとれる。実は、その平坦さが災いして、この島の第一の悲劇が訪れる。
1945年の3月から始まった米軍の沖縄上陸戦は、まず沖縄全島の中央部を確保し、そこから南北へ進攻したのであったが、この伊江島は、北部に属しながら、米軍の激しい上陸作戦にさらされることとなる。それは、この島の平坦な地形を利用して、日本軍が飛行場を設置していたからであ理、米軍としてもそれを抑えたかったからである。
米軍の進攻は熾烈を極めた。日本軍は女性をも含めた住民たちを戦力に加え、圧倒的に不利なうちにありながら投降を許さず、無謀な突撃を強いたり、自決を強要したりした。
その結果、沖縄全島では、四人に一人が亡くなるというそれだけでも充分すぎる被害のなか、この島では二人に一人、つまり、半分の住民が犠牲になったという。北部ではもっとも悲惨をなめたところといっていい。
その後、この島の半分は米軍による基地として接収されることになるが、現在でもなお、35%が米軍の支配下にある。
私がこの島に関心をもったのは、実はこの島の悲劇はこれで終わらず、さらに過酷な追い撃ちに晒されたことにある。
日本の敗戦から三年後の1948年8月6日、伊江島の波止場で、砲弾約5,000発を積載した米軍の弾薬輸送船が接岸時に大爆発事故を起こした。運悪く同時刻には、沖縄本島と結ぶ連絡船が入港したところで、その船がその爆発事故に巻き込まれ、死者107人、負傷者70人という大惨事をみるに至った。
これがこの島を襲った第二の悲劇であった。
私がいたたまれなく思うのは、三年前のあの凄惨な戦いで、やっと生き延びた人々が、この悲惨な事故に巻き込まれたという事実である。無念ではないか。
戦争と基地、これは沖縄を読み解くキーワードでもある。まさにそれが示すところによって、この島の住人たちは度重なる悲惨に直面しなければならなかったのであった。
出かける前からこの島の悲劇を知っていたせいもあって、どこかでゆっくりとこの島と対面し、鎮魂の思いを捧げたいと思っていたのだが、その思いが叶えられたのが、熱帯植物園内に設えられた展望台からであった。
これは伊江島から逆方向、瀬底島へかかる瀬底大橋
みはるかす海原は、折からの好天でどこまでも青く輝き、平和そのものであった。しかし、その水面下に、かつての悲劇は確実に横たわっていたし、そして今なお、悲劇の予兆から完全に逃れられないのが沖縄の今日の実情なのである。
次回はいよいよ辺野古への訪問である。