自転車でときどき通る箇所にレモン(檸檬)の樹とカリン(花梨・花櫚)の樹がある。
まだ実は熟し切っていなくて青い。
この時期の青い檸檬は私だ。
願わくば爆弾を秘めたそれであって欲しい。

花梨も私だ。
それ自身の果実は食したりしないが、風呂に浮かべたり、焼酎に漬けるとえもいわれぬ香りを発する。
私も自身は煮ても焼いても食えないが、なにかと結びついて役割を担うこともありうるかも知れない。
私の場合は、花梨ではなく、「可憐」といわれることもあるが、それはこの際どうでもいい。

檸檬にしても、花梨にしても、さして大きな花ではない。
それがこのように立派な実を結ぶのは、自然が秘める可能性のようなものを余すところなく示している。
その過程を眺め、その結実を見るとなんだか幸せな気分になる。
なにかが「なる」こと、生成すること、それはすばらしいことなのだ。
ひとにはそれと知れぬ可能態としてしかなかったものが、自然のエネルギーを吸収して現実態となることなのだ。

ひとは今、人為のエコノミーに気をとられ、そうしたひとの恣意をはるかに越えた自然の生成に驚異することは少ない。
しかし、根源的なのは自然の方であり、ひとが生み出したシステムなどは一時期のほんのちっぽけなものでしかない。
実生活からいったら無理ではあろうが、出来るだけそうした人為的なもので右往左往などしたくはない。

私は青い檸檬だ、そして実り行く花梨だ。
生成し、消滅するものの全てだ。
*以上の独りよがりな文章に登場する「檸檬ー爆弾」のイメージはいうまでもなく梶井基次郎の「檸檬」に依拠したものである。
これを機会にそれを読み直してみた。
この短い文章の中で、彼は自らを定位出来ない不安をのべたてたあと、やたらものの名前を列挙する。
それは、そうしたものたちとの関わりのうちにおのれを定錨したいという欲望のようなものである。
そうして彼は、とある店で檸檬を求めその質量感に「ある」ということを実感する。
しかし、当時の文化の最先端といわれるような丸善の中で、再び彼はおのれと周辺の存在感が希薄になるのを覚える。
そのとき思い出したのがくだんの檸檬である。
彼は積み上げた美術書の上に檸檬を乗せて丸善を去る。
そしてその檸檬が爆弾であることを夢想する。
ここには、梶井がどれほど意識したのかはともかく、人為の集積としての美術書と、自然の生成と消滅を孕んだ爆弾としての檸檬が対置されている。
果たして檸檬は爆発するのだろうか。
まだ実は熟し切っていなくて青い。
この時期の青い檸檬は私だ。
願わくば爆弾を秘めたそれであって欲しい。

花梨も私だ。
それ自身の果実は食したりしないが、風呂に浮かべたり、焼酎に漬けるとえもいわれぬ香りを発する。
私も自身は煮ても焼いても食えないが、なにかと結びついて役割を担うこともありうるかも知れない。
私の場合は、花梨ではなく、「可憐」といわれることもあるが、それはこの際どうでもいい。

檸檬にしても、花梨にしても、さして大きな花ではない。
それがこのように立派な実を結ぶのは、自然が秘める可能性のようなものを余すところなく示している。
その過程を眺め、その結実を見るとなんだか幸せな気分になる。
なにかが「なる」こと、生成すること、それはすばらしいことなのだ。
ひとにはそれと知れぬ可能態としてしかなかったものが、自然のエネルギーを吸収して現実態となることなのだ。

ひとは今、人為のエコノミーに気をとられ、そうしたひとの恣意をはるかに越えた自然の生成に驚異することは少ない。
しかし、根源的なのは自然の方であり、ひとが生み出したシステムなどは一時期のほんのちっぽけなものでしかない。
実生活からいったら無理ではあろうが、出来るだけそうした人為的なもので右往左往などしたくはない。

私は青い檸檬だ、そして実り行く花梨だ。
生成し、消滅するものの全てだ。
*以上の独りよがりな文章に登場する「檸檬ー爆弾」のイメージはいうまでもなく梶井基次郎の「檸檬」に依拠したものである。
これを機会にそれを読み直してみた。
この短い文章の中で、彼は自らを定位出来ない不安をのべたてたあと、やたらものの名前を列挙する。
それは、そうしたものたちとの関わりのうちにおのれを定錨したいという欲望のようなものである。
そうして彼は、とある店で檸檬を求めその質量感に「ある」ということを実感する。
しかし、当時の文化の最先端といわれるような丸善の中で、再び彼はおのれと周辺の存在感が希薄になるのを覚える。
そのとき思い出したのがくだんの檸檬である。
彼は積み上げた美術書の上に檸檬を乗せて丸善を去る。
そしてその檸檬が爆弾であることを夢想する。
ここには、梶井がどれほど意識したのかはともかく、人為の集積としての美術書と、自然の生成と消滅を孕んだ爆弾としての檸檬が対置されている。
果たして檸檬は爆発するのだろうか。