時代を画すような歴史上の英雄というひとがいますね。
これについてヘーゲルという哲学者先生が面白いことをいっています。
英雄と言われる人たちは、それぞれ、自分の欲望に従って行為するのですが、「世界精神の意志」というたいそうなものと一致するから英雄といわれるのだそうです。まあ、これはヘーゲル先生の歴史観を前提としているわけですからいいでしょう。
さらにその英雄たちは、夭折したり、失脚したり、裏切られたりと、その生涯は決して幸福ではなかったともいいます。これもなるほどということでしょうね。実際のところ長寿を全うした英雄は数少ないですものね。あるいは長寿であったがために晩節を汚し、英雄の座を滑り落ちたりした人もいますね。
面白いのはその次で、これら英雄たちは、しばしば妬まれたり恨まれたりでこき下ろされることが多いというのです。しかもそれらは、最もその身近にいた従僕たちによって為されることが多いのだそうです。
ようするに従僕たちは、英雄の身の回りの世話をすることでその私生活をも知り尽くしていて、英雄の折々の欲望やその処理の仕方、あるいはその動揺や心の動きまで知っているので、その英雄の欠陥をもまた熟知しているというわけです。
ですから、ヘーゲル先生は「そうした心理学者の従僕にかしずかれている英雄はとんだ災難である」といい、「従僕の目に英雄なし」というのですが、しかし同時に、こう付け加えます。「だがそれは、その英雄が英雄ではないためではなくて、その従僕が従僕であるあるためなのだ」と。
つまりそれは、従僕が英雄の真価を知らず、あるいは知るよしもないままにその負の面ばかりを見ているのだというわけです。
そしてそのすぐあとに、ヘーゲル先生はこう誇らしげに付け加えるのです。
「ゲーテは、この私がいったことを10年も経ってから繰り返している」と。
ようするに、ゲーテに先んじて自分がことの神髄を明かしたのだと自慢しているわけです。
この辺のさや当ても面白いですね。
ちなみに、このヘーゲル先生、ゲーテやベートーヴェンと同時代人です。
ところで、いわゆる従僕ないしはそれに準ずる人が、英雄やスターなどの日常を暴露し、その権威をずたずたにすることは今でもよくあることですね。大きくは大統領などの有名人の奥方や部下の手記から、果てはスターと称する人の付き人などの週刊誌ネタまで、いつの時代もスキャンダルやゴシップへの関心は尽きないものです。
さて、ヘーゲル先生は、そうした英雄や諸個人のゴシップやエピソードにもかかわらず、それらを超えて歴史は「理性」を実現する場となるのだというあの有名な「理性の狡知」の叙述へと進んで行きます。ようするに、人々がそれぞれの欲望や意志に従って行動したとしても、「理性」というずる賢いのがいて、結果としてはそれらを「世界精神」という「理性」実現の材料にしてしまうというわけです。
それに続いてヘーゲル先生はこんなひどいことをシレッとしておっしゃるのです。
「特殊なものはたいていの場合普遍に比べるときわめて価値の低いものである。だから、個人は犠牲に供され、捨て去られる」と。つまり、特殊なもの、すなわち私たちは、普遍的なもの=世界精神の材料のひとかけらにしか過ぎず、そんなものは犠牲にし捨て去って歴史は進むのだというわけです。
ここで私は「マッタ!」をかけなければなりません。なぜなら、「ずる賢い」理性とやらのために、「犠牲にされ」、「捨て去られる」のはまっぴらごめんだからです。よく分からない世界精神とやらを実現するのが歴史の使命だとして(それ自身眉唾ですが)、私がそのための単なる捨て石になり犠牲になることはいやなのです。
私が例え、へんてこりんな人間だとしても、「世界精神」とやらのために生まれてきたのではありません。こうしてここで生きていることそのものが肯定されることを望むのです。この場合、私がへんてこりんな人間であるということは、私自身の自己反省であって、「世界精神」とか「歴史の使命」などという抽象的でけったいなものからあれこれいわれる筋合いはないのです。
ちょっと飛躍しますが、「世界精神」やら、それに根ざす正義や真理は人殺しです。歴史上そのために殺された人は自然死に次いで多いのではないでしょうか。特に近代以降は、戦争や革命、反革命、民族や宗教、国家などなどでこうしたお題目のために何百万、何千万の人が殺されてきました。
これらをすべて、ヘーゲル先生のせいにするつもりはありませんし、ヘーゲル先生がそうした大量殺戮に直接関わったことはありません。むしろ、歴史上の暴大な死や残虐を目の当たりにし、それらを意味づけようと、「世界精神」というものを持ち出したのかも知れません。
しかし、全く無罪でもありません。
なぜなら、歴史の進展にとって諸個人よりも「世界精神」とやらの方が中心だという言い方を引き継いだ人たち、それは右翼であったり左翼であったりするのですが、その人たちが正義や真理の貫徹のために大量殺戮に関わったという事実を20世紀を通じて私たちは経験してしてきたのですから。
そして、敢えていうならば、それは今も継続中なのです。
えーっと、なんお話しでしたっけ。あ、そうそう、英雄ね。
こんにちの英雄はスポーツ選手でしょうか。
イチローとかワールドカップでゴールを決めた選手たちとか・・・。
あ、宮里 藍さんもそうですね。
え?話をごまかした?
そうですね。尻つぼみですね。ゴメンなさい。
*以上は、7月に行う若い人たちとのヘーゲルについての読書会に関して勉強している途中で出てきたエピソードです。
*正直に言います。遠い昔のある時期、「理性としての歴史」の実現のために、個人が犠牲に供されることはあり得ると考えた時期もありました。ある種の悲壮感すら持っていたのですが、それが同時にに、他者への抑圧でもあることに当時は気づきませんでした。
これについてヘーゲルという哲学者先生が面白いことをいっています。
英雄と言われる人たちは、それぞれ、自分の欲望に従って行為するのですが、「世界精神の意志」というたいそうなものと一致するから英雄といわれるのだそうです。まあ、これはヘーゲル先生の歴史観を前提としているわけですからいいでしょう。
さらにその英雄たちは、夭折したり、失脚したり、裏切られたりと、その生涯は決して幸福ではなかったともいいます。これもなるほどということでしょうね。実際のところ長寿を全うした英雄は数少ないですものね。あるいは長寿であったがために晩節を汚し、英雄の座を滑り落ちたりした人もいますね。
面白いのはその次で、これら英雄たちは、しばしば妬まれたり恨まれたりでこき下ろされることが多いというのです。しかもそれらは、最もその身近にいた従僕たちによって為されることが多いのだそうです。
ようするに従僕たちは、英雄の身の回りの世話をすることでその私生活をも知り尽くしていて、英雄の折々の欲望やその処理の仕方、あるいはその動揺や心の動きまで知っているので、その英雄の欠陥をもまた熟知しているというわけです。
ですから、ヘーゲル先生は「そうした心理学者の従僕にかしずかれている英雄はとんだ災難である」といい、「従僕の目に英雄なし」というのですが、しかし同時に、こう付け加えます。「だがそれは、その英雄が英雄ではないためではなくて、その従僕が従僕であるあるためなのだ」と。
つまりそれは、従僕が英雄の真価を知らず、あるいは知るよしもないままにその負の面ばかりを見ているのだというわけです。
そしてそのすぐあとに、ヘーゲル先生はこう誇らしげに付け加えるのです。
「ゲーテは、この私がいったことを10年も経ってから繰り返している」と。
ようするに、ゲーテに先んじて自分がことの神髄を明かしたのだと自慢しているわけです。
この辺のさや当ても面白いですね。
ちなみに、このヘーゲル先生、ゲーテやベートーヴェンと同時代人です。
ところで、いわゆる従僕ないしはそれに準ずる人が、英雄やスターなどの日常を暴露し、その権威をずたずたにすることは今でもよくあることですね。大きくは大統領などの有名人の奥方や部下の手記から、果てはスターと称する人の付き人などの週刊誌ネタまで、いつの時代もスキャンダルやゴシップへの関心は尽きないものです。
さて、ヘーゲル先生は、そうした英雄や諸個人のゴシップやエピソードにもかかわらず、それらを超えて歴史は「理性」を実現する場となるのだというあの有名な「理性の狡知」の叙述へと進んで行きます。ようするに、人々がそれぞれの欲望や意志に従って行動したとしても、「理性」というずる賢いのがいて、結果としてはそれらを「世界精神」という「理性」実現の材料にしてしまうというわけです。
それに続いてヘーゲル先生はこんなひどいことをシレッとしておっしゃるのです。
「特殊なものはたいていの場合普遍に比べるときわめて価値の低いものである。だから、個人は犠牲に供され、捨て去られる」と。つまり、特殊なもの、すなわち私たちは、普遍的なもの=世界精神の材料のひとかけらにしか過ぎず、そんなものは犠牲にし捨て去って歴史は進むのだというわけです。
ここで私は「マッタ!」をかけなければなりません。なぜなら、「ずる賢い」理性とやらのために、「犠牲にされ」、「捨て去られる」のはまっぴらごめんだからです。よく分からない世界精神とやらを実現するのが歴史の使命だとして(それ自身眉唾ですが)、私がそのための単なる捨て石になり犠牲になることはいやなのです。
私が例え、へんてこりんな人間だとしても、「世界精神」とやらのために生まれてきたのではありません。こうしてここで生きていることそのものが肯定されることを望むのです。この場合、私がへんてこりんな人間であるということは、私自身の自己反省であって、「世界精神」とか「歴史の使命」などという抽象的でけったいなものからあれこれいわれる筋合いはないのです。
ちょっと飛躍しますが、「世界精神」やら、それに根ざす正義や真理は人殺しです。歴史上そのために殺された人は自然死に次いで多いのではないでしょうか。特に近代以降は、戦争や革命、反革命、民族や宗教、国家などなどでこうしたお題目のために何百万、何千万の人が殺されてきました。
これらをすべて、ヘーゲル先生のせいにするつもりはありませんし、ヘーゲル先生がそうした大量殺戮に直接関わったことはありません。むしろ、歴史上の暴大な死や残虐を目の当たりにし、それらを意味づけようと、「世界精神」というものを持ち出したのかも知れません。
しかし、全く無罪でもありません。
なぜなら、歴史の進展にとって諸個人よりも「世界精神」とやらの方が中心だという言い方を引き継いだ人たち、それは右翼であったり左翼であったりするのですが、その人たちが正義や真理の貫徹のために大量殺戮に関わったという事実を20世紀を通じて私たちは経験してしてきたのですから。
そして、敢えていうならば、それは今も継続中なのです。
えーっと、なんお話しでしたっけ。あ、そうそう、英雄ね。
こんにちの英雄はスポーツ選手でしょうか。
イチローとかワールドカップでゴールを決めた選手たちとか・・・。
あ、宮里 藍さんもそうですね。
え?話をごまかした?
そうですね。尻つぼみですね。ゴメンなさい。
*以上は、7月に行う若い人たちとのヘーゲルについての読書会に関して勉強している途中で出てきたエピソードです。
*正直に言います。遠い昔のある時期、「理性としての歴史」の実現のために、個人が犠牲に供されることはあり得ると考えた時期もありました。ある種の悲壮感すら持っていたのですが、それが同時にに、他者への抑圧でもあることに当時は気づきませんでした。