今日は父の所に行くと、見慣れない看護婦さんに食事を食べさせてもらっていた。
よくよく話を聞いてみると別の棟から来られた看護婦さんで、元気な頃の父をご存知であった。
(父は叔母の面会にちょくちょく来ていたのである。)
父は元気だった頃、車椅子の叔母を連れ出して散歩に出ていたと言う。
そんな姿を想像しながら、もう一度父の顔を見る。
看護婦さんもそんな父を思い出しながら、スプーンを父に差し出していた。
「sakeだよ」と言うと、「sakeってなんだ?」と父は言うこともあるし、「sakeちゃんか」と言うこともある。
もうおそらく「娘」と言う概念もなく、考えると言う行動もないのではないだろうか。
食事が終ると、ほとんど目を閉じている。
食事をしている時でさえ、目を閉じている。
亀のようだ、と今日は考えた。
でもそれでも生きている父。
もう私の事も分かっているようには見えず、けれども私が家に帰ってしまう寂しさもないように思う。
もしかしたら喜びと悲しみは対になっているのだろうか。
会える喜びがあれば別れる悲しみがある。
それがなければ、失うことも無い。
出会うこともなければケンカもない。
ケンカは残念だけど、もしかしたらもう一歩仲良くなれるきっかけになるかも。
男女の仲も、喜びがあれば悲しみが訪れる。
生きているという事は、悲しみがあっても喜びを知りたいとも思うけれど
そうでなければならない、とは思わない。
かろうじて、まだ今の私は喜びや悲しみを消化できるエネルギーがあるのかもしれない。
父は私を認識しないことで、会える楽しさもないけれど、別れる寂しさも無い。
それも良いのではなかろうか。
どうしてもいつか父と別れる日が来ることを考えずにはいられない。
私はその時泣かない、悲しまないつもりでいる。
これだけ覚悟して想定しているのだから、たぶんできるだろう。
うっかり悲しみモードに入ったら、とりとめなく後悔してしまいそうだからだ。
父が私にしてくれたことと、私が父にできたことがあまりに違いすぎる。
それを考えたくないから、ずるいかもしれないけれど、全てを放棄しようと思う。
そうでないと、帰ることがしのびなくなってしまうから。
よくよく話を聞いてみると別の棟から来られた看護婦さんで、元気な頃の父をご存知であった。
(父は叔母の面会にちょくちょく来ていたのである。)
父は元気だった頃、車椅子の叔母を連れ出して散歩に出ていたと言う。
そんな姿を想像しながら、もう一度父の顔を見る。
看護婦さんもそんな父を思い出しながら、スプーンを父に差し出していた。
「sakeだよ」と言うと、「sakeってなんだ?」と父は言うこともあるし、「sakeちゃんか」と言うこともある。
もうおそらく「娘」と言う概念もなく、考えると言う行動もないのではないだろうか。
食事が終ると、ほとんど目を閉じている。
食事をしている時でさえ、目を閉じている。
亀のようだ、と今日は考えた。
でもそれでも生きている父。
もう私の事も分かっているようには見えず、けれども私が家に帰ってしまう寂しさもないように思う。
もしかしたら喜びと悲しみは対になっているのだろうか。
会える喜びがあれば別れる悲しみがある。
それがなければ、失うことも無い。
出会うこともなければケンカもない。
ケンカは残念だけど、もしかしたらもう一歩仲良くなれるきっかけになるかも。
男女の仲も、喜びがあれば悲しみが訪れる。
生きているという事は、悲しみがあっても喜びを知りたいとも思うけれど
そうでなければならない、とは思わない。
かろうじて、まだ今の私は喜びや悲しみを消化できるエネルギーがあるのかもしれない。
父は私を認識しないことで、会える楽しさもないけれど、別れる寂しさも無い。
それも良いのではなかろうか。
どうしてもいつか父と別れる日が来ることを考えずにはいられない。
私はその時泣かない、悲しまないつもりでいる。
これだけ覚悟して想定しているのだから、たぶんできるだろう。
うっかり悲しみモードに入ったら、とりとめなく後悔してしまいそうだからだ。
父が私にしてくれたことと、私が父にできたことがあまりに違いすぎる。
それを考えたくないから、ずるいかもしれないけれど、全てを放棄しようと思う。
そうでないと、帰ることがしのびなくなってしまうから。