きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

母親の魔法

2014-03-13 | 母子家庭だから思うこと
ここで保険料の値上がりの通知が舞い込む。
そろそろ国民年金の請求も来るはずである。

そんなことを考えていたら、明け方に目がランランと輝いてきた。
ふと気づくと、kekeは布団に居ない。
相変わらず部屋で何やらやっているのである。

「keke」
と私は言い、「就活はどうなっているのだ」と尋ねると、やっているようなことを言う。

「お前は1度しか面接に行ったきり。あれからどうなっているのだ」と言う。

いつもの通り「アンタがそう言う事を言うとやる気がなくなる。」と言う。

「言わなければ何もしないから言うのだ。23歳になると税金も上がるし年金も納めなければならない。いい加減に仕事を探して働いてくれ。」と強く言う。

「お前はこの3ヶ月で何枚履歴書を書いたのか」と尋ねても答えず、「大学を辞めたのはお前の意思ではないか、それなりに風当たりが強いのは当たり前だから、人の2倍も3倍も履歴書を書く必要がある」等と言い、「税金、保険料、年金、どんどん払いが増えて、削るとしたら食費ではないか、それなのにこれマズイだの、言ってる場合か。お前の言う美味しいものを作るには市販の調味料を買わないとならないんだぞ。」と言う。
kekeはいつものように「頼みもしないのに勝手に産まれただけ」と言う。

「産んだ以上、アンタは生き長らえさせる義務がある」「こんな劣悪環境に育てられて迷惑だった」「がんばれと応援されるのと説教ではやる気に差が出る」等と言い、「それで食費が掛かってイヤならもう食事も要らない、死んでいいから。」と言う。

そんなに生きるのがイヤなら死んでもかまわん。


・・と私は内心思ってしまった。

思ってしまう。
それでもニコニコご飯を作って差し上げているのは、愛情なのか、死なれると困ると言う世間体なのか、もう自分でもよく分からん。世間一般的に、母親とは子供を永久不滅に愛せるように思われているが、最近疑問に思う。

と言うのもこの前また竹内久美子さんの本を読んで、返してしまったのでタイトルは忘れたが、動物の親子愛(残酷な面)を書かれた後に、人間の親子の虐待に切り込んだ本があって、なかなか面白かったが、その中でどこかの原住民の話が載っていた。

その原住民は、村のお祭りで若い女が何人もの男とたわむれるそうである。その結果、誰の子供とも分からない子供が授かるのだが、それが若くて育てられない、経済的に育てられない、または既に子供がたくさん居すぎて育てられない等、環境が劣悪だと地面に埋めてしまうそうである。人間には(と言うより生物全体に)、本来そういう残虐な面を持っているのだ、それを文明(見た目)によって隠している、みたいな話である。
(冒頭はパンダも2頭産むが、そのうちの1頭しか親は育てない話で始まる本である。)

「もう死んでもいいから、食事も要らない」
本気でそう思ってるらしい息子に、それでも好きなものを作って差し上げるのは、もう偽善の領域に入っている。私はこれが愛情とは思えない。

家から閉め出して、「生きたければ何処へでも行って生き延びろ、死にたければ見えないところで死んでくれ」と言いたい気分である。でもそうしたら間違いなく死ぬであろうから(23年もつきあっているとだいたい予想できる)、家でかくまっている。要約するとそうなる。


昨日は、kekeが生まれた時のことを思い出した。
あの時、あんなに可愛くて誰よりもいい子だと思っていたのに、まさかこんな風になろうとは。
こんな風とは、kekeのことではない。
自分自身の息子への気持である。

高校を卒業した辺りから、母親としての魔法は解けたように思う。
私達は、今現在いったいどのような間柄なのであろうか。

何かの機会があれば、私はもうこの家から出て行っているに違いない。
今日は心底そう思う。