津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■文久三年「恕斎日録」(27)

2020-07-30 07:10:59 | 恕斎日録

195
  九月朔日
  二日  今日吉弘力童 従江戸遺髪持参下着之事
  三日  
  四日  今日被 召出ノ事
     一作方田畑共七ハ分ニ而 民喰心遣仕候儀無之言
      上
     一今度被 召連候在御家人共人撰手配等言上
     一南関御防禦筋川口々々番衛等之儀等言上
       右上下達物帳ニ備録
     一四日之晩吉弘加左衛門遺髪葬式之事
196
      荒木甚四郎方より演舌 今度 御二方様御上京
      者 太守様御名代ニ付 御同様之御振合ニ而一
      郡ニ両人完 東目同役者罷出候様との事
     一今度在御家人引廻者 物場ニ而者重士之場ニも
      被召仕候筈ニ付 着座以上之人躰被差越度内意
      申入置候處 荒木方より御小姓頭ニ而も可差越
      候得とも 在中者共も扱も不なれ之由ニ而 迚も
      同役之内より可被差越候間 人撰申上候様との
      事ニ付 岩崎より申談両人申立候事
       在御家人ハ得物/\持参不苦候 槍も立テ行
197
       候儀ハ不相成候得とも一ツニ括り持せ候儀
       ハ不苦候との事
     一今晩同役之内 村上久太郎・橋本源右衛門両人江
                         (人脱か)
      今度 御二方様御出京御供被仰付 在御家支配
      被仰付候御達之事 内意之通
  六日
  七日
  八日
  九日佳節 御礼出仕
      藤崎宮・祇園社参拝 六所宮参拝ハ来ル十四よ
198
      り十九日迄也
       昨日御達
      方今不穏形勢ニ付 太守様御苦舩被 思召上
      候ニ付 天下泰平・国家安全・武運長久之御祈
      祷 藤崎 祇園 六所右三ヶ所へ被 仰付候
      ニ付 御家中之面々参拝いたし候様との御達
       藤崎 九日八時より七ツ半迄 来ル十二日迄
       祇園 右同様
       六所 来ル十四日より十九日迄               とぎき
     一今日御花畑ニ而 歩ノ御小姓高山秋蔵へ逢候處 同        外聞の京都情報
199
      人儀 長州三田尻迄 為外聞早打被差立候而 昨日
      同所より早打ち罷帰候 同所御茶屋へ三條様御列
      七卿御滞留 禁兵者引払 長州之御人数余斗ニ警
      衛いたし居候 正親町様ハ筑前黒崎江御滞留 追
      而者筑前へ御出之筈之由 同所より御伺ニ成候
      處 勅使ニ御取扱ハ無之由 小倉へ者長崎より
      御和睦之御使者参り 其以後者以前之通御交り
      被成度との由なり
  十日  御連枝御供ニ被召連候無足之面々百人 今日よ
      り出立之事
200
  十一日 今日 御二方様四半頃 此元御発駕 御同勢千人
      余 御二方様共ニ御馬上御陳笠を被召 御小姓
      頭両人 御用人両人いつれも騎馬 御供御側物
      頭同様騎馬 いつれも股引 半切 あしろ笠 黒張立
      を冠り勇々敷御行粧なり
       同役一同 下津氏門前ニ而 拝上いたし候事
      今夕 村上久太郎・橋本源右衛門へ祝酒等送りる事
  十二日 今日同役村上・橋本両人 御家人弐百人引廻出
      立 右百人完 両人宅に而出立懸ニ相揃 門前之祝
      酒を冷酒に而振 同役中者 村上宅へ参り 橋本出 
201 
      立を待合 祝盃いたし 支配/\之御家へも土器
      冷酒ニ而盃を差祝候事 いつれも鯨波之声を揚
      勇々敷出立之事
  十三日 今日より玉名江出在之事
      今日早天より出立 中富手永御家人中 小柳村川
      原ニおゐて操練見分 諸生六十人余也
      中頃より雨ふり出し候得とも 西洋筒ハ雨を凌
      候が第一之用方ニ付不相止打セ 半過ニ誘方中
        (催か)
      幷□合之面々呼出 冷酒ニ万引肴二而元気を為
      附候ニ付 尚更勵ミ合候事
202
      今晩会所泊
  十四日 今朝同所出立 平山村湯所ニ而休ミ 中十丁村入
      込 北原九郎太宅昼休 同人より手酒等饗応 三和
      仁村御境目等見分 吉地村馬口労原作宅止宿
  十五日 関村新番番所見立場見分 和田源太郎制作 相求          五月廿四日「南関鍛冶和田源太郎作ミネエルケヘール壱挺代六百五拾目あい求」とある。
      ミネール筒試打見分 中リ不宜候ニ付新作ニ引替候事
      四ッ山原ニ而南関手永御家人中操練見
       諸生八十人余天気ハ宜候得とも中富同様元
       気付差遣候事

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■文久三年「恕斎日録」(25)

2020-07-28 06:02:24 | 恕斎日録

180
  十八日 今日政府対談間ニ而 道家角左衛門江今度被召
      連候在御家人之儀ニ付咄合有之 其節も今度御
      出京之儀相尋候處 此節者 越前・肥前・筑前・久留米
      其外所ゝより此方江御使者参り 此方よりも薩
      州江御使者参り御談合之處 肥前閑窓京都へ          鍋島閑叟(齊正)=細川護久室・宏子の父
      御登り 攘夷之方を御受被成 夫より江戸江御下
181
      り 同所ニ而者 当時之事務攘夷と者成る物欤抔
      とわやくの様ニ被仰向 尚京都へ御立寄直ニ蒸
      気船ニ而御帰り 其後者 少しも手を御出し不被
      成 禁兵本式之警衛之人撰ニ而却而者外聞ニ被
      成候由ニ而 コスキ御工面被成 此節も御同意ニ
      而者候得とも御上京者無之由 併モ諸大名御上
      りニ相成候ハヽ 大方俄ニ御上り可被成候 筑前
      様ヘハ小倉之打手之命を御受被成候由ニ而 江
      戸方ヘハ御心配被成 公武之中ニ御立被成 石
      ニ手をはさみ候様ニ而 今度不得已御上京御一
182
      躰之御建白之由 薩州者 公武之御向キニ不宜
      京都之方者御不興ニ相成候間 御冤を被雪度御
      上之由 此跡三郎様伏見迄御上り 十三郷を御退
      け被遊候様御建白之處 御用ひ無之候間 御出京
      なし 直ニ御下りニ相成 旁以御不興之由なり
      此方様者是迄差而御建白も無之候處 此方より
      被差登候王朝連 不怪はびこり 関白様三條様江
      も深く取入 却而却而ハ長州よりも 此方様よ
      り被差登候王朝連強相成 天子を挟而諸侯を
      令する勢ニ乗し居 大ニ天下之妨ニ相成居候 既
183
      ニ轟翁助宮部鼎蔵河上元斉山田重郎四人ニ者       宮部鼎蔵ら四人、藩主補佐に任ぜらる
      乍恐 太守様御補佐之 勅令も下り 御礼廻り
      も有之程 中々 公辺二被対候而も御心痛二被
      為在候ニ付 今度御建白ニ而 攘夷欤開発両塗之
      内ニ御決儀 公武御一鼎之御建白之筈ニ而 攘
      夷者いまた防禦調かたく候ハヽ 公家方一致ニ
      相成候様 夫を御建白ニ而通被行候ハヽ 江戸江
      御下り御建白可被成候 左候ヘハ たとへ御聞入
      無之とも 御申訳ハ相立可申 其上ニ而者割拠之
      御支度之外無之候との事
184
      右ニ付 右此方より被差登候浪人共を初 除候仕
      法者難相成候哉と尋候處 夫ハ中々手当りかた
      く 右四人之者共者 公家衆へも深く取入 既ニ
      御補佐之命も蒙り居程之事ニ而 今更御手ニ及
      間敷 元来此方より右等之者を禁兵ニ御登せ相
      成候か 乍恐御失策と可申候得とも 是も不得已
      訳ニ而御登ニ相成候 右等之儀ニ付 強之助
      早々御上京之御治定被為在候間 一日も御早き
      方御為合二相成候との噂ニ相成候事
  十九日 今日小倉候より早打之御使者参り 長州より京
185
      都へ申立 小倉征伐ニも可相成哉之勢ニ付 援兵
      を被差出被下候様 左候ハヽ長州より手差も出
      来かたく候間偏ニ御□援を奉願候との事
  廿日
  廿一日
  廿二日 南関者 長州口ニ付 御防禦之御手当等種々入組
      追々御奉行中へも咄合 且又今度 強之助様被
      召連候在御家人被撰 且御取扱振引廻之人躰等
      之儀ニ付手者 日々同役初分職へも咄合有之候
      右者上下達帳ニ備録候ニ付爰ニ畧す

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■文久三年「恕斎日録」(24)

2020-07-27 07:03:15 | 恕斎日録

171
  八月朔日 佳節出仕
  二日  今度之事躰ニ而 此方より肥前江御使者として                                   
      神谷矢柄被差立 昨日帰着いたし候處 惣躰之様            神谷矢柄・文久元年十月~慶応元年二月 小姓頭(700石)
      子 矢張薩州同様ニ而 差而異存も無之候由なり           肥前(鍋島藩)の意向、薩摩藩同様
  三日  今日より小田新地再興等ニ付出在候事
      今日小天横嶋新地新塘築立候場所幷所々損所
      取繕将監殿手築立之破損潮留之ヶ所等も見分 同         将監=有吉清助、細川家三卿家老
      方より役人出案内 同方新地中ニ而蔵屋敷ニ昼
      休 同方より饗応之事
             (津脱か)
      横嶋村御家人三家清之允宅泊 積り立等者 達物帳記 
172
  四日  早天より出立 坂下引移 海辺新地取繕所々見分
      晒渡場より乗船 名珠宮社内昼休 尚乗船新塘
      筋海上より見分 荒尾引移御茶屋泊
  五日  早天より出立 同所より乗船海上見分 大嶋村再
      興いたし候塘手ハ御城石垣同様築立候ニ而
      少しも損所無之 大嶋村福嶋春岱別荘ニ而饗応
      之事
  六日  同所出立 野原村・石炭山見分 坂下詰所へ四頃着
      直ニ文芸試業 同所泊
  七日  同所ニ而武芸試業
173
      今晩六手永御惣庄屋同所ニ而会談               玉名郡六手永=伊倉・内田・坂下・中富・荒尾・南関
      横嶋新地再興之積立等咄合治定之事
      右之内横嶋京泊り石塘江新規大井樋明方之衆
      試 新地九百間治定
     一刑部殿より被申聞候南関御防禦筋 六手永惣御
      家人同所へ馳付候仕法等衆議
      内田引移側量見分 御囲籾操直検分右相済帰府
      京都より之飛脚等ニ而異聞左之通捽候
     一先月廿七日夜手 京都高臺寺庫裡焼失いたし 其           京都高臺寺放火など不呈浪人の暗躍
      最中門前へ高札を建書面
174
      高臺寺奸僧共朝敵松平春嶽ニ寄宿差免候段不
      届至極ニ付放火焼捽畢向後右様之者有之ニ
      おゐて者可為同罪也
        亥七月
      右之高札を建候ニ付 一人も消し候者ハ無之 見
      物迄いたし候由之事
     一阿州様を勤皇連より呼寄せ候手段いたし候處           阿州=松平阿波守=蜂須賀斉裕
      京都詰之御家老某より 御登不宜候ニ付心配い
      たし 御登を御留メ申候處 勤皇連より大ニ
      憤り 右御家老を刺殺候由 其上ニ而同人共より
175
      尚御登り之手段いたし候間 不得已御登り被成
      候由 右乱防之者共ハ大躰知レ候得とも 御吟味
      茂無之由也
     一頃日公義より 御役人を長州下関へ被差下 幕
      命を以 長州へ者 此間小倉之地を押借いたし 臺
      場を立て候間、早々臺場を引取候様御申付 小倉へ
      ハ 右之通長州へ申付候而も 若立退不申候ハヽ
      追払候様 夫ニ而も引払不申候ハヽ 筑前・肥前よ
      り援兵を出し候様 芸州も同様之御達之由候處
      右御役人様者 前文ニ録し候通 頃日下ノ関通
176
      船之節 小倉御奉行を取隠候ニ付 長州より大
      炮を打懸 右之御役人様ハ山口迄引立参り いま
      た帰り無之候由 心遣之風聞之由
       右者右田才助噂之事
  十日
  十一日
  十二日
  十三日
  十四日
  十五日 今日例之通御神事御能拝見之事
177
  十六日
  十七日 今日荒木氏より口達之趣左之通
     一近日京都之御模様 弥以不穏ニ付 近々 御連枝
      様之内 御一方為 御名代御出京之筈候処
      右不穏ニ付而者 余斗之御人数被召連候筈ニ付
      在御家人之内 強壮ニ而 武芸相心得之者共被召
      連候筈ニ付 早々相達候様 惣斗三百人斗り被召
      連候見込 右之趣 仰山ニ無之様 御惣庄屋共へ早
      々相告候様との事
      御達左之通
178
      方今事躰益及切迫候ニ付而者 公武江被 仰
      立候筋被為在候ニ付 太守様ニ者可被遊 御
      出京処 藩屏之 御任ニ被為在 御近国外冠之儀
      も有之候間 御名代として 澄之助様御差登           澄之助細川護久(当時31歳)
      右被仰立筋其外被遊御委任旨被仰出候

      此段触之面々江も相知セ可申旨 御用番被申聞
      候条 被奉承知 触支配方有之面々者 可被相知候
      以上   八月十三日

       昨日刑部殿へ参り 南関御防禦之人数等申伺
       候上ニ而 乍恐今度 御連枝様御出京之儀者
179
       当時之事躰ニ而 御出京御乗鎮之事ハ甚六敷
        叡慮も攘夷之御決定と相見 浪人共者弥以
       はびこり 容易ニ者除かたく候間 如何哉之段
       申伺候処 至極左様ニ存候 此節者誠ニ御大儀
          澄か
       ニ而 強之助様御上京ニ而 公武御一躰之
       御建白と相見候段被申候間 此方より何様御
       背踏者御無用ニ被為在 成る丈御持込御出京
       可宜と申伺候處 至極尤ニ而 昨日も夫のミ御
       評議被為在候との事ニ而候 此節者此方より
       御人数出候ハゝ 薩州・筑前・越前様ニも御登り
180
       候筈との噂有之候間 其中ニ而も成る丈御跡
       より様子を御伺候上御出京可然段申伺候處
       同意ニ相成候事
      
      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■文久三年「恕斎日録」(23)

2020-07-26 07:07:27 | 恕斎日録

164
 (七月)廿一日
  廿二日
  廿三日
  廿四日
  廿五日 今日 被召出相勤候事
  廿六日 今日こくら村上新蔵より早打申越候中 書抜左之
      通
      当月廿三日昼後 本山沖江異船一艘見候 長府よ         公儀役人乗船の船、長州より大砲による攻撃を受け、拿捕される
      り相図を順々小倉迄打続候處 右者 公辺御人
      数乗組ニ而御印も立居候間、小倉之人数者引払
      候處 長州方より四発炮発いたし 一発ハ右之船
165
      ニ当り候様ニ相見候得とも 格別損候様ニハ無
      之 右船ハ門司へ繋候處 長州より数艘ニ而 右之
      船を下関之様ニ引参り 其後様子相分り不申候
      との事
       右之通候處 其跡ニ而承り候得共 右乗組者 公
       義御役人と小倉御郡奉行一人相加り居候處
       長州人大ニ憤り 右御役人へ小倉奉行乗組居
       不申哉之段問合候處 公義御役人より 右之者ハ兼
       而長州人より憤り居候様ニ被存候哉ニ而 右
       之者ハ居不申候段返答ニ及候處 船底迄さか
166
       し候間 小倉奉行ハ差迫り無致方自殺いた
       し候を 船中之者共取隠し 直ニ海中へ放棄候
       由之處 右御役人虚言を以被取隠候事を憤り
       船中より引上ヶ 長州へ引立行候處 其成行
       相分不申候との事
       右之趣申来候間 南関御手当専務之事ニ付 岩
       崎も同道 刑部殿へ参り 右書付も入被見 南関
       御手当筋御奉行中へも夫々被申聞度申入候
       處 尤ニ被存 夫々書付を調相達候様との事
       右相済懇意之咄等有之 酒肴被出手■之■■
167
       ■り之油身等被出饗応之事
  廿七日
  廿八日  今日山形典次郎列 従薩州御着之事
       右之様子承り候處 其後ハ戦争も無之 武次之由
       ニ手 此方より御申伺之稜々茂至極同意之由也
  廿九日
  三十日    松平越前守様御内使                  松平春嶽(室・細川勇姫)使者来熊
             本使御家老    岡部豊後
             副使御側御用人  酒井十之允
             右同御奉行    三岡八郎 
       右去ル廿六日此元着、御辞令ハ御直ニ可申上候
       様との御使ニ付 今日御花畑ニ被召出候事
        御弓間ニ而御饗応 下方迄も御貫屋ニ而御酒
        肴被下候由 御使者之御口上伺ハ相分不申候
        事
      一典次郎帰宅之上薩州之様子承り候處左之通          薩摩藩島津家久の意向
       彼方も 御国是者此方と御合躰ニ而 何そ咄候程
       之事ハ無之 三郎様も初発より 公武御合躰之
       御主意ニ而状況も相成候處 被召連候者共之内
       浪人共江一味いたし 九條様へ仕懸候仕度いた
169
       (二行 コピー欠)
  
       意ニて 江戸江も被登候處 段々京都ニ而も首位
       貫通いたしかね 既ニ ■惑をも差起り 無念ニ茂
       被存候事ニ付 此方より右之御主意ニ而 御上
       京も被為在候ハヽ 此国よりも太守様御父子之
       内直ニ御上京ニ可相成 若御両人様之不被出来
       候節ハ 屹度公子野内より上京可仕候間 早々其
       段知セ呉候様との大意なり 且又夷人通称も御
       同意ニ而 今度イキリス打払者 向方とり仕懸 不

170
       得已事ニ而候間 其外者少しも遺恨無之候ニ付
       開国之方御主意之由ニ申候事

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■文久三年「恕斎日録」(22)

2020-07-25 06:12:19 | 恕斎日録

157続
     一正福寺風鎮祭一七日今日満日ニ付同役中参拝
     一穀丸様今暁子下刻被遊御遠去奉□取繕 依之今            穀丸(ヨシマル)=慶順(韶邦)二男、文久二年十二月十六日、熊本花畑邸生まれ
      日より日数十日諸事音便御達
       右ニ付御物頭列以上明十日四時より入時迄
158
       之内平服ニ而謁之御達
  十日 
  十一日 今日 玉名郡御惣庄屋共出府ニ而 頃日大風ニ而破
      損之新地再興等之事会談ニ而 治定之趣申出候
      内 第一ニハ小田・横嶋村 内膳殿・将監殿催合新地
      小田会所より引受之開川塘悉皆根切 唐人川築
      切之井樋破却いたし候處 此節之衆議ニ本通り
      築切候而者人気ニ差障り再興難成 石川筋ハ明
      放しニいたし川筋東西之塘築立 新塘千五百間
      築立之外見込付かね候 若左様ニ治定いたし候
159
      ハヽ川上之古田水害を免れ 近村之肥土を取 津
      口之通船も無差支 漁師共出漁も存分ニ相成 十
      分之良策 下方之悦無限 誠ニ御仁恵を戴候 乍併
      内膳殿家来内ニ不好者有之候ニ付 同方より同          
      意いたしかたく候段申出候ニ付 其方は如何様
      卆申開いたし候而治定いたし可申候様申付候
      事
       此入組至而入組 利害得失大ニ相違いたし候
       事ニ候得とも事長し上下達物帳ニ備録
  十二日 今夕刑部殿より帳口三人被呼候ニ付 岩崎・入江
160  
      同道参る之事
  十三日 右新地再興旧復之儀 内膳殿家来之中へ少々差
      障り有之候哉ニ付 小田御惣庄屋丸山平左衛門
      且又同所会所役人福田五次郎ハ 内膳殿家来と
      ハ兼而熟懇ニも有之 旁昨今日両人共ニ同方へ
         談脱か
      参り熟いたし候得とも 一切承引不致候由ニ
      而 両人共ニ差迫り罷出 其之次第申出候ニ付 詰
      間より別段を以早引いたし 右両人も召連 内膳
      殿へ参り候處 同殿ハ当時在京留守と申 至而無
      人ニ而 右等咄合之開いて無之 留守居川越丹右
161
      衛門・奉行代高木金左衛門と対談いたし 利害得
      失を明白ニ申伺候得とも一切承引不致 其上主
      人留守ニ而候間 下り候上ニ而返答いたし可申
      様申出候ニ付 右新地ハ一日も難差延候ニ付 た
      とへを引 御主人様御留守ニ付 御取切御出来か
      たく候ハ御尤ニ存候得とも 事之緩急ニより申
      候 若出火之節主人留守ニ而も候ハヽ 帰りを待
      取消可申哉 左様之節ハ伺ニも不及候事ニ而 万
      一御下り候上 御気ニ入不申候ハヽ 拙者罷出早
      速御申開仕候間 是非/\即座之決断を申伺候
162
      處 左様ニ候ハヽ御尤之事ニ付 主人留守をいた
      し居候方へ相談いたし可申候談申候而 同殿兄
      弟衆之内留守居致居候方へ申入候由之處 尤ニ
      被存候ニ付 勝手ニ築立可申候様との返答ニ相
      成候ニ付 右之返答を書記し見せ候而取置罷帰
                  (歓か)
      申候處 平左衛門共不一片相欽 直ニ願書を取調
      相達候事
       右入組且応対談論之次第ハ事長く記し尽し
       かね候 一通りハ上下達物帳ニ記置候事
       右者出来候上誠ニ下方之為合ニ相成候事
163            (寺脱)
  十四日強雨 妙解寺・泰勝参拝
      今日川々増水之事 所々より相達 別ニ記
  十五日 墓参等例年之通相済
  十六日
  十七日
  十八日
  十九日 公参湧泉庵参拝
      干衛殿より誘引ニ而 本妙寺貫主見舞 常題目庵
      ニ而午参会 雅宴之事  

 

             (全321頁のほぼ中間に達しました。50回予定より早く終わりそうです)    

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■文久三年「恕斎日録」(21)

2020-07-24 06:53:06 | 恕斎日録

150
  五日  早朝より出在 大濱鯨油開損所見分 夫川口渡                                  ウンカ被害を除くために用いる鯨油を購入するための干拓
      場を越坂下四手永開見分村内所々見分 塩□
      村藤井清之允宅昼休 荒尾手永へ引移 名珠宮参
      拝 夫より所々新地見分 清源寺村西川源助宅立
      寄 性海院様御墓参 沖須村奥村喜弥太宅泊
  六日  同所出立 扇崎村庄屋荒木八郎衛門宅立寄 同人         ご子孫荒木氏は熊本史談会の会員であった。Dr高田先生の従兄に当たられた。
      先祖ハ 永暦之頃より数十代庄屋相勤 九百年以
      来連綿いたし 清正公行末之塘御普請之節 折
      々御立寄 間二者御座も被為在 毎も従熊本御馬
      上ニ而未明ニ御着被遊 或早朝御馬上より庄屋
151
      門前江御出日遊 庄屋ハ居る欤と御意被遊候處
      庄屋ハ未タ休ミ居候ニ付 同人妻よりきてんニ
      而 庄屋者先刻御普請場へ罷出候段申上候而 庄
      屋ハ裏の垣を破り 間道より御先ニ参り居候處
      跡より実事を 御聴ニ達し候處 同人妻ハきて
      ん有る物そとお笑被遊候由 右破り候垣ハニ今
      存 此所ニ而候段相咄 其節段々拝領物仕り 朝鮮
      御陳之節之御人組之御書付をも頂戴いたし 御
      鞍をも頂戴いたし居 右御書付本書は御次へ出
      し候而 未タ御返し無之 写しを拝見いたし候事
152
       祝酒として庄屋より冷酒を出し賞美いたし
       候事
      坂下詰所昼休帰府いたし候事
       右新地損所又ハ御普請一巻之申談等達物帳
       ニ備録
     一薩州江異船渡来 戦争ニ及候由風聞ニて 外聞と
      して 遊学性三人被差越置候處 今日帰府 申出候
      趣さ之通
                   (ス脱)
     一七月本日昼四つ半頃よりイキリ七艘と戦争相
      始り 初発者何角応答有之 夜ニ入相止
153
     一御臺場二ヶ所打崩 薩州方へ者手負死百人斗も
      相見駕拾六丁 □駄四丁ニ而 人を背負者茂見受
      候由
     一鹿子嶋上町一円焼 異人より石火矢ニ而打崩 焼
      失いたし候哉ニ相見候由
     一薩州異船造り之大船三艘焼失 是も夷人より火
      を付け候哉ニ承る
     一薩州より打出候大炮異船ニ当一艘損し一艘ハ
      楫を折候由ニ而 大将分之者壱人矢ニ当り即死
      之由
154
       右大畧ニ而細敷事ハ不相分外ニ記録すへし
  七日
  八日
  九日  薩州今度異人と戦争有之候ニ付 御隣好之事ニ
      付此方より今日御使者被差上候事                            大奉行・1,000石
       本使長谷川十之進 副使山形典次郎外ニ壱人         山形典次郎=庄右衛門従兄弟・下津久馬実弟
       歩御使番両人
      右御使者之大意典次郎江承り候所 今度異人襲
      来ニ付 御見舞併戦争之儀ハ此方よりハ不存躰
      ニ而之御口上振之由
155
     一右ニ付若御力ニ不被及候ハヽ 無御遠慮御援兵
      可被仰下候との事
     一公武御一躰第一ニ而候處 幕府衰微ニ被及候
      而者天下治りかたく 御一致ニ申談候而 幕意
      遵奉御取立申度との事

       従長州御使者到着口上之大意 左之通
                (ママ)
      勅意尊奉 幕意遵崇 英払之異船打払候處 武備
      不足いたし候得とも義之重所不得已 及戦争候
156
      處 国力を尽候得とも 皇国之武威立兼 国辱ニ
      相成候段 奉恐入候 依而御応援被下間敷哉 何卒
      国威相立候様御頼談との事

       此方様より御返答振之大意 左之通
      被仰越候趣者御尤候得共 攘夷之儀者 天下一和
      衆力一致ニ而無之候而者難斗候處 右攘夷ニ付
      而者 公武之御間未タ御一致ニ至り不申候由
      ニ付 御手元より御伺ニ而 御一致之御差図ニ相
157
      成申候ハヽ 何時ニ而茂御応援可申候得とも 夫
      迄之所者御断との事
       右之趣を以 今日副役御奉行道家角左衛門よ
       り被申伺候處 右御使者 暫何とも不申候而 只
       尚是非共御同意被下候様との申出ニ候得と
       も 右者強而御断被申伺候由也

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■文久三年「恕斎日録」(20)

2020-07-23 06:30:38 | 恕斎日録

141                           スッポン
  十日  今日大鼈三ッ茂茂見亀之助へ頼御臺所へ差出候
      事
          弐ツ河野簡斎
         内        送り物也
          壱ッ遠山弥二兵衛
142
      今夕河野簡斎来訪 右内分申聞答礼として 高田
      焼竹形の花入一ッ贈る事
  十一日
  十二日 同姓次郎助父子家内共に案内いたし候事

142
  十三日 先月廿五日 堀田鴻之助様江相州御受持被 仰         相州警備、細川藩に替り、下総佐倉藩に交代の命
      付候ニ付 此方様御人数引払候様との旨被           父・正睦は老中首座、井伊直弼により失脚す
      仰付候段一統御達之事
       堀田様ハ下総佐倉拾壱万石
     一今日御書付渡ニ而 御府中落書幷竹の筒ニ而発
      炮等屹度被差留 相背候者ハ厳重ニ被仰付候と
143
      の御達 略之
       右ハ先日 小笠原美濃殿門前ニ 竹の筒ハ焔硝         小笠原備前家10代・長洪
       を仕懸 門の扉ニ打懸 其外段々ニ落書人気を動
       候ニ付御達
     一加賀・仙台・越前・唐津より 異人打払之儀 不同意
      之段 今日とへ御建白ニ相成候由風聞之事
  十四日 祇園御祭礼御能拝見之事
  十五日
  十六日 京都十日立之大早飛脚到来聞取
      京都御守衛御人数不足ニ而 早々御人数被差登
144

      候との段申来候事
 (十七日 欠)

  十八日
  十九日
  廿日  吉広加左衛門大病ニ而 急ニ快復無覚束候ニ付          加左衛門は恕斎(庄右衛門)の従兄、庄右衛門実父が吉広氏
      おと寿参り療養願下り之相談いたし候間 魚住
      衛門太・志賀太郎助相談いたし 同人より右田才         志賀太郎助は魚住衛門太二男
      助江も咄合候處 御役勤りかね候程ニ者無之様          右田才助=文久二年四月~慶応元年十二月 奉行副役
      躰之由ニハ有之候得とも 先永く相勤候ニ付 一
      ㇳ先 下り候而養生いたし方可宜 自分よりも可
      申遣 且自身へ咄合 同志之段も申遣候様との事
145
      ニ付 其趣を以嘉左衛門へ申遣候事
  廿一日 夜前より降雨 今晩強雨 高瀬川八尺 諸作無差障
      数十日之旱魃十分之潤ニ相成候事
     一越前様御父子 当月廿日頃 四千斗り之御人数ニ
      而御入京之筈之段 此方御留守居へ御答相成候
      由 加賀・仙台よりも御人数引御出京之筈之由
  廿ニ日
  廿三日
  廿四日
  廿五日
146
  廿六日
  廿七日
  廿八日
  廿九日 千場嘉左衛門養子哲彦儀 五月廿八日 御家古家
      柄ニ付 五人扶持被下置 御留守居御中小姓ニ被
      召出候段 嘉左衛門より知セ今日相届 直ニ欽
      丞仕出
       右御留守居ニ被仰付候子才を 佐貮役坂本彦
       兵衛へ問合候處 先代之罪状により被仰付候
       乍併 其身之武芸出精いたし候ハヽ 組附ニも
147
       進席被仰付候見合も有之 役付ニ而も同断進
       席被仰付候段返答之事

148
  七月朔日 社参
  二日  
  三日  昨夜より東風起り 今昼大風ニ相成海辺ハ非           新地塘破損(熊本藩年表稿には記載ナシ)
      常高潮ニ而 玉名内 小田・坂下・荒尾海辺所々新地
      塘筋破損 横嶋新地塘切ニ而惣潮入 其外所々潮
      入ニ相成候ニ付 右三ヶ所より早打注進いたし
      明早天より出在見分いたし候様申来
       例之高潮より五尺余相増
      朝六半より出在 小田江出在 惣庄屋以下出役
      出迎 呑崎新地損所見分 唐人川井樋崩所見分 唐
149
      人川渡り 内膳殿 将監殿催合 小田引□築立之大          細川内膳忠顯 有吉将監立愛
      新知塘大切れニ而 悉皆潮入 百三十丁余 夫より
      将監殿十番開大破損 潮入百丁余 同八番開右同
      所四十丁余 出百姓竈数数十軒流失 小前共者塘ノ
      上 木下へ莚を張 其中ニ而飯を焼居候躰 見ニ不
      忍躰なり 夫より川さらへ開塘損所見分 住吉社
      床普請小屋休 横嶋鳴村一両一疋三津家清之允
      宅泊
       外ニ八代開大破損 流人三人 内両人助命 一人
       不相見               

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■文久三年「恕斎日録」(19)

2020-07-22 07:31:09 | 恕斎日録

132
  六月朔日 社参
  二日  此間数日旱魃ニ付 正福寺ニおゐて雨乞御祈祷
      被 仰付候事     満日参拝
      将軍様者 従大坂尚御帰京被遊候由 御封来之事
     一小倉村上新蔵より早打着 去ル朔日イキリス軍
      艦 下ノ関鍋町と申所ノ下ニ碇を卸候ニ付 長州
      より船を被差向 ■船へ乗込討取之都合いたし
      候得とも ■船より大炮を放 寄付難成 大炮打合
      長州船一艘打崩候由ニ而候得□ 損候人ハ無之
      夷人之方ヘハ 五人欤怪我人為有之由 夷船ハ少
133
      しも騒がず同所江加フリ居候由ニ付 不怪騒動
      之段申来
      右ニ付長州より小倉様へ夷人御打拂之御懸合
      ニ成候處 右ニ付而者御達も有之事ニ付 公辺
      へ御伺之上打払可申との御返答之由也
  三日
  四日  吉広加左衛門より先月十三日より不塩梅ニ而          恕斎(庄右衛門)の従兄
      三度ふさき不軽容躰ニ付 一旦ハ甚心遣いたし
      候處 其後者漸々快相成候得とも 為介抱養子力
      童を遣し候様自筆ニ而家内へ申来 且又飯田四
      郎助も在京いたし候處 同人よりも力童当りえ
134
      書状ニ 右同様ニ而 早々出立いたし候様申来 且
      又同人二男治武丞よりも嘉一郎へ同様申遣候
      ニ付 おと寿力童書状を持参 此方へ参り候處
      小子者当番ニ付外出々来かたく 魚住衛門太父
      子志賀太郎助も参り相談 明後日六日ニ力童出立
      ニ相決 看病願等之手数いたし 且又嘉左衛門よ
      り 自身右病ニ而経費多 五十両持参いたし候様
      申来候ニ付 用意いたし替せニ取組 夫々用意い                                        為替
      たし候事
       右嘉左衛門自筆之状二暫ハ心遣いたし候段
135
      申来候儀者 三度ふさき之節 暫は不本心ニ而少
      しも覚不申 積気強候而 此節之大事ニ大ニ心配い
      たし 殊ニ相州御受持御免ニ相成候様との儀抔
      ハ 主ニ成心配いたし候ニ付 積気のこりたるよ
      り之病気と相見候段 脇方より申来
  五日
  六日  今日吉弘力童出立 朝五半頃より小倉路出立 柳
      川丁へ見立ニ参り 沢村殿門前迄見送 嘉一郎
      者御馬下迄送り候事
       下ノ関者先月末より度々夷人と戦争有之候
136
       ニ付 通路も不案内ニ而心遣ニ付 明後八日よ
       り御飛脚早ニ而登り候ニ付 大田黒へ一宿待
       合同道いたし候事
  七日
  八日  南関より早打着 去ル五日昼頃■船三艘下ノ関          下関戦争の報
      前ニ来泊 双方より初炮 大ニ動乱いたし居候段
      申来
  九日  南関より下ノ関江 外聞被差出置候戸上直蔵・野
      中宗育より 河野太郎助へ差遣候書状中左ニ記
     一五月十日イキリス船一艘 豊前田浦ニ繋船居候
137
      処 長州より瀬戸を越候ハヽ打払可申旨沙汰之
      處 色々御断申出 神奈川出帆帰国之船ニ而 公義
      之御請分をも所持いたし居趣申出 迚も通船来
      りかたく候ニ付 上方之方を向逃懸候由之所 其
      夜壇ノ浦ニ而 長州より二三発大炮打懸 船にも
      当り候由之處 其内逃去り申候由
     一同廿三日阿蘭陀船江戸より下之席通船之
      處 臺場より大炮打放 夷船よりも十発斗り相発
      其内蒸気烈敷いたし大早ニ而外手へ迯去り候
      處ハツテイラ一艘取落候由
138
     一同廿六日 本阿蘭陀船一艘 長崎より出帆之由ニ
      而 九ッ頃下関へ入来候處 臺場より二三十発相

      放 夷船よりも同様相放 下関横 亀山宮配電等打
      破候由  外二記ス
     一六月朔日 イキリス軍艦一艘ノロシヲ上ヶ 八ツ
      頃上方より下着 臺場より打立候得共事ともセ
      す 長州所持の夷船作り之船等打抜 怪我人十余
      人 其外数ヶ所打崩 勝時を上ヶ 上方之様ニ出帆
      いたし候由
     一同五日朝より 戦争相始り 右直蔵列下ノ関
139
      へ海乗いたし 中央ニ而大炮一聲響 夫より段々
      と聞へ 下関へ通船え者共へ問合候處 大里之田
      浦江イキリス船二艘渡来 長州双方発炮之由 直
      蔵とも下関へ着いたし候處 長州御家中より数ヶ
      所之臺場へ出陳 長府候御茶屋本陳之由 前田と申所
      民家四十軒斗り 夷船より破裂丸打懸焼失 其機
      ニ乗し 異人六七十人大小筒を持責上り烈敷戦
      争 甚騒立 勝敗者見届不申 小倉之様引取申候 尚
      大里へ参り候處 イキリス片カナニ而申越 松平
      大膳太夫殿追々狼藉之仕形有之 軍を好候ニ付
140
      先今日小勢を以勝負を決 猶数艘差向 打取可申
      勿論小倉様江者毛頭恨無之候ニ付 御安堵可被
      成候と申儀を申越候由ニ御座候 長州方未タ寸
      斗手際出不申 毎日敗走之由 御国辱ニ茂至り可
      申候欤 上方往来旅人道を失 実ニ可歎爭ニ御座
      候 小倉様ヘハ御用心厳敷候得共 公義より御
      伺之御沙汰無之内者炮発無之由
         六月六日     外山直蔵
     一長州四百石取御侍之二男異人より釼突を以突
      通され即死之由
141
     一怪我人者六七人之由
     一民家焼失三十軒余
     一異人上陸四人打込候由
     一異人大炮玉目 壱斗徳利程有之 廿六日朔日両度
      者十八貫目位之由
     一長府前田壇浦両所臺場打崩候由
      右今日相達政府へ相達候事



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■文久三年「恕斎日録」(18)

2020-07-21 06:15:26 | 恕斎日録

125
  十七日
  十八日
  十九日
  廿日
  廿一日 今日同姓隠居次郎助より 同姓親ミ咄として 此
      方家内共案内いたし候ニ付 いつれも相揃参る
      事 饗応ハ 以来共互ニ取可申候ニ付 成る丈質         =扌偏ニメ・
      素ニいたし候申談ニ而左之通
       此次ニハ小子方へ可□□筈也
      献立 吸物 こち 大鉢 るひの魚 ふク ゆてさしミ
126
         丼
         大鉢 すし 小丼一ツ添 波美酒も出ス
  廿二日
  廿三日
  廿四日 南関鍛冶和田源太郎作ミネエルケヘール壱挺
      代六百五拾目あい求 今日同所会所役人武田権左
      衛門江代銭相渡候事
  廿五日
  廿六日
  廿七日 頃日以来数十日之旱魃ニ而 祇園宮ニおゐて
127
      御祈祷被 仰付 今日満日ニ付 同役中同道参拝
      之事
  廿八日
  廿九日 此方御飛脚 去ル廿三日長州通行之節承候に者          下関戦争 - Wikipedia
      当廿一日 長州田浦前■船一艘通行いたし候處          =己の下に大「」異体字
      長州臺場より ■船ニ迎四五十発大砲打 其内二
      発■船ニ中り候様ニ相見 ■船ハ発炮ニも不
      及ニ公海之様ニ引取候由 何様返報いたし候模
      様ニ而 来ル廿六日頃押懸可申哉之由なり
                  右ハ蘭船之由           
128
     一当月廿六日 ■船長州臺場江押懸 下関亀山八幡
      打崩 臺場石垣打崩打崩 長州■船造之船ニ一発当        亀山八幡宮・歴史由緒 
      り 千石船一艘打崩 其外下関土蔵等数ヶ所打崩、
      廿五発之内十発中り候由 長州ヘハ死人無之由
      申候得共 内実ハ餘斗ニ有之候を 隠し居候欤も
      難斗との段 小倉村上新蔵より申越候事
      右 今度長州より■船を打拂候次第ハ 此以前 下
      関辺社内等之浮浪人三十人斗り集り居候間 城
      下へ相伺候處 邪广ニ不相成候ハヽ其尽ニ閣候
      様との御差図ニ候處 漸々相増八十人余ニ及 所
129
      柄之悪党共を手成敗いたし候間 所柄も欽居候
      由之處 右■船発炮騒動之節 城下本より人数八
      百斗り 甲冑之士を被差出候處 右之面々 いつれ
      も互ニ見知り居候由 左候ヘハ 右騒動も右浮浪
      共より引起 内輪ハ城下よりも情実を存候事欤
      と相見候由なり 長州申分ハ 異船打払ハ たとへ
      公辺へ伺候而も埒明不申候ニ付 禁庭より
      御直命を受候而いたし候事との風説なり
     一去ル廿日 今日と姉小路様 御出仕御帰り之節 何者        姉小路公知
      とも不知待受殺害いたし候處、直ニ御存命           朔平門外の変
130
      之ふりニ而御帰り御逝去之由なり
      右御方者 公武御合躰を唱 内分者天下之
      動乱を加斗し候間天誅を加候と 所々江張紙い
      たし候由 三條様へ茂 今度御辞職不被成候ハヽ
      不待時日 同様代天行罰と張紙いたし候ニ付 三
      條様直ニ御辞職被成候由 三條様へ者右二付 此
      方之御人数十人斗り完警衛ニ相詰候由も申来
      右此方より大筒手十人 土州様より十人被差越
      不寝番夜廻り等いたし候由
        右張紙
131
              ■法崘三条中納言              ■=耳偏ニ専 「轉」が正  
      右之者 姉小路中納言ニ同腹ニ而 公武御一和
      を名として 実天下之争乱を好シ者ニ付 急速ニ
      辞職隠居不致候ニおいて者 不出旬日代天誅
      殺戮者也
              右所々ニ張候由也

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■文久三年「恕斎日録」(17)

2020-07-20 06:07:11 | 恕斎日録

117 
  五月朔日 当番ニ付嘉一郎代参
  二日  田口角助江参り 両家江出京被仰付御辞令等拝
      見 上妻宅江立寄候處 藤本幷入江・村上へ出合 藤
      本酔躰 入江列と議論之事
  三日  
  四日  今日 召出被仕候事
      作方之爭事言上 麦七分菜六分中通之作と申上候
      事 頃日者亀之助を以見事之スツホンを遣し 好
118
      物ニテかこひ置 度々たべたぞ被遊 御意候ニ
      付 小子より 此節南関御通行被遊候ハヽ 彼方ニ
      而差上可申相心得候處 堂崎路 御通行被遊
      候ニ付 差上出来かね候間 此節指上候断申上候
      事 乍恐京都之御都合も御宜敷御速ニ被遊 御
      帰国 奉恐悦候 乍恐 嘸々 御配慮被遊候たると
      奉存候断申上候處 大分心配いたしたとの 御
      意被遊候事
     一副役御奉行道家角左衛門方より聞左之通
      昨日 大坂より早打之雇□着いたし候處 将軍
119
      様江者大坂御城御見繕被成候との 勅諚ニ
      付近ニ彼方へ 御成之筈 且又一橋様江茂 御
      勅命ニ而御下り之由也
       右者 内輪之御模様ハ 至而煩敷尾模様ニ而 今
       度石清水 御幸之節 浮浪共ゟ奉し御□を御
       引セ被遊候而 攘夷之□を態ト拵立 同所ニ而
        将軍様攘夷之 勅命を被下 若兎角被有之
       候節 直ニ御親征之筈ニ有之候處 将軍様
       江関白様より極御内々御心を被為附候ニ
       付 俄ニ御病気ニ而 供奉御断被仰上候間
120
       一橋様ヘハ攘夷之 勅命御持参ニ而江戸江
       御下り 将軍様ヘハ 態ト大坂御城へ御引被
       成候哉之取沙汰いたし候段噂之事
  五日
  六日
  七日  先月廿七日御用の御欽ニハ 支配所役々 当時柄ニ
      付 態ト出宿ニ不及候段申聞置候處 今日 三役中
  八日  相揃 欽ニ参候間 酒肴振舞候事
      今日手嶋五一郎旅行ニ付 離杯申受家内へ相見
      候事
121
 (九日・なし)
  十日
  十一日
  十二日 此間無事 今日配下へ之御達左之通
             荒尾手永地士
                 中嶋武兵衛
      右者今度 公武より 御沙汰之趣ニ付 禁闕
      為御守衛 用意済次第早々被差出 詰中士段之振合
      ニ被 仰付候 此段御申渡御請之程可有御達候
      以上       選挙方御奉行中
         五月十一日
122
      右之通 御家中御侍を初 其外子弟之面々 在中御
      家人又ハ子弟之内へ 数百人被仰付候處 実王朝
      連より拵立候而 京都へも手法なき三條様を取
      立 異国を止候哉ニ相聞候ニ付 東大之面々江ハ
      親類中より心を付 心有る面々ハすへて御断申
      上候 其中王朝家共浮浪人をも手引□引ニ而 人
      差を以 住江列より拵立候由なり 夫を上より被
      仰付候事ハ如何之思召ニ有之候哉 定而後道ハ
      御代法を可被附候事と被相考候事なり
       右武兵衛も 師役より心を被附 此方へも伺出
123
       候得とも 上より之御達を差留候儀相成不申
       併段々心有物ハ御断も申上候事ニ付 御断申
       上候ハヽ 取継禍申候段申聞候處 其後一同出
       京いたし候事
  十三日
  十四日 吉広加左衛門より養子力童縁談相済候答礼と
      して書状幷麻横上下一反送り来候ニ付礼状
      仕出候事
     一今日同姓新次郎御小姓役翻訳ニ被仰付候事
  十五日
  十六日 今日御封来候事
124
      将軍様 頃日大坂江御入城之處 当月四日尚御上
      洛之筈を御延引ニ而 直ニ摂海より蒸気船ニ被
      召 御東帰之御模様ニ付 禁庭より御心遣被遊
      姉小路様御下坂御取扱被成 江戸より者近来之
      取沙汰ニ付 将軍様を御心遣奉り 諸武場之諸
      生 板倉様も 禁庭へ強而御願取ニ而 大坂へ御
      出仕御取扱之筈之由申来候事
     一馬代八両平川亀右衛門江今日相渡候事
               預ニ而八百目

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■文久三年「恕斎日録」(16)

2020-07-19 06:49:57 | 恕斎日録

109
  十六日 当月六日 太守様京都被遊 御発駕籠豊後路被
      遊 御通行旨御達事
  十七日 今日荒木氏より岩崎物部へ口達之趣左之通
      公武之御際表向者御和熟之御沙汰ニ候得共 内
      実者中々左様ニ而無之 将軍様江戸より御帰
      府御当日ニ相成 禁庭より俄ニ御留被仰付 異
      人御返答之様者 摂州表より被差廻候而 夫々被仰
110
      聞 万一ニも戦争ニ及候ハヽ 将軍様ご自身惣
      大将ニて御征伐被遊候様との 綸言之趣ニ而
      将軍様を御先手同様之御扱ニ手有之 禁庭之
      御所置も如何ニ而 諸大名も銘々自国之御取□
      之御様子 右者浪人共弥以相募り 公家方も色々
      とそくらくし候由ニ付 浪人共御国中より手縄
      を引候様も難斗 薩州様者旅人一切入り込ミ不
      申 此方より差出候外聞共も 一向寄付不申候程
      ニ有之候間 御国中江無往来之旅人入込不申候
      様 御口屋/\取締候との事
111
  十八日 太守様 当月十六日靏崎被遊御着岸 来ル廿一日
      熊本江被遊 御着座候様 今日到来有之候事
      太守様 当月四日 二條城御成被遊御登城 同五日
      御参内 龍顔御拝 六日京都被遊 御初駕候段
      御到来ニ付御物頭列以上 便條を以御歓 御郡代
      以下明後十九日 御家老中 御中老中 廻方之御触
      達有之候事
  十九日
  廿日
  廿一日 太守様今朝七時之御供揃ニ而大津被遊 御発
112
      駕 四時頃ニ丸御屋形江被遊 御入 九時御花畑
      江被遊 御着殿候事
       今朝片山宅江同役中相揃 観音橋 御通行を
       奉伺候而 直ニ杭場へ罷出 少御間合も被為在
       溝口殿へ暫相待居候處 松野殿応対酒肴を振
       舞ニ相成候事
       何れも杭場 御目見申上候事
  廿二日 今度京都 御登りハ甚以御難儀之御時節ニ付
      乍恐御武運長久御勤伺速ニ被為済□ 遊 御下
      国候様廿一日一乗院江乍恐御祈祷相頼置候事
113
      に付き今日一乗院江御礼として神酒料 拾匁 小紙
      一把  一箱相送候事
  (廿三日・欠)
  廿四日
  廿五日 嶋原様御祖母様御下りニ而 今日長洲御泊りニ
      而御渡海之段至来有之候事
       右御通行ハ御用差支候ハヽ 同役不罷出候共
       不苦候由ニ付 今日者御用差支申候ニ付 其段
       上相答候而罷出不申候事
     一今夕此方家内隣家宇野家内上村方いつれも同
      道ニて権現山へ海老釣りニ参り候處 酩酊ニ及
114 
      其中 加惠寿共渡鹿天神へ参り候而 村上久太郎
      共河井家内連ニ而同様出浮居候間 帰り此方へ
      引而参候處 折節酩酊中ニ付失言有之 久太郎
      立腹いたし而引取候 夫より子飼刑部殿茶屋へ
      野々口家内共田中典儀方家内同道ニ而参居
      候間 同所より被相招暫饗応ニ而帰り候事
       右失言ニ付 翌朝村上へ参り相断候處 留守ニ
       付岩崎・入江は参り 右之次第及相談候處 久
       太郎其前入江へ参り相答候由ニ付 出勤之上尚
       入江取扱ニ而断相済候ニ付 夕方此方より尚
115
       又村上方江参り 呉々相断 和熟いたし候事
        以後酒を相慎候様記し置候事
      今夕権現山出浮伺ニおゐて 明後廿七日御用有
      之 御花畑へ罷出候様御達有之候ニ付 今晩直ニ
      刑部殿別荘へ袴取寄 荒木氏へ御受ニ参候事
       跡達而 其節ハ余程元気宜相見候断 同氏より
       噂ニ及候事
  廿六日 飯田丞之助宅發寄合ニ同役中罷越候事
  廿七日 今日於御花畑 御用有之候被仰渡左之通
       其方儀 御裏御作事御用懸被 仰付 出精相勤候 
116  
       ニ付 目録之通被下置旨被 仰出候
         御紋付御上下一具

      今日 御登城之事
       御奉行所 御入之事
  廿八日 今日到来大鼈二つ 茂見亀之助を頼 御次江差出
      候事
       追而 御歓被遊旨 同人より内分申達候事
     一今日乗馬引入之事
       栗毛五歳 代銭六百目 坂下平川亀右衛門所
            持 同人弟藤四郎より引入
117
        代金八両ニ相定五月十六日相渡

          (以下五月分・次回)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■文久三年「恕斎日録」(15)

2020-07-18 15:36:49 | 恕斎日録

101
  四月朔日
    一今日江戸より早打之御飛脚出立 当時 京師之
     方御警衛被蒙候ニ付 相州御受付ハ御断被
     仰上天草之方へ御打替之御願之由 風評なり
    一今朝松野亘殿京都ゟ下着後見舞候処 段々 京
     都之様子噂ニ相成 将軍様江も尚御滞留被為
     仰付候由 御合躰ハ奉恐悦候得とも 浪人共之
     申分一々ガブと御打くらひ 議奏傳奏トガ
     リ過 一向條理と申事ハ絶而無之 天子様関白
     様江も下勝ニ相成 御持扱ニご様子 既ニ加々様
     御着之節 足利三代将軍之御像乱防いたし候者
102
     共 會津候ゟ被差押 弐人者打取ニ相成 其内弐人
     者同候之御家来之由 実ハ會津候廻し者ニ相見
     不怪御謀斗ニ而 御逮方ニ相成候處 禁庭ゟ右
     者忠義之者共ニ而候間 差免候様被 仰出 誠ニ
     條理転動之御扱之事ニ候
     天子様者 如何被思召候哉と尋候處 右等ハ総而
     ハ議奏傳奏之取計ニ而御存知ハ不被為遊候哉
     ニ奉察候 右等不慮の事多 近来ハ人気も関東へ
     向候様相見 迚も浪人共一洗之御決断無之候而
     者 治りかね可申見込之段 噂ニ成候事
103
  二日
     今日御達右之通
     方今不穏辞世ニ相成 殊ニ藩屏之儀 京都ゟ御達
     之趣茂有之候間 不慮之御手当□ 弥以御手厚被
     遊御覚悟ニ候 依之御国中御家人等子弟至迠
     相州爪同様 於御国許も池部啓太申談 西洋流銃
     隊稽古被仰付 自然之節者 別途ニ被召仕候筈候条
     右稽古筋之儀 各中差入被致世話候様 尤 下地之
     流儀ニ而 年々大筒手受持根戸者 是迄之通被仰付
     候筈候 此段可及達旨候條 左様御心得可有其御
     達候 以上          御奉行中
       四月二日
104
          御郡代家中

      御書附渡
     今度横浜港江英吉利軍艦渡来 三ヶ条之儀申立
     何れも御聞届難成候ニ付 其趣を以 可及応接候
     間 速ニ兵端を開候哉茂難斗 仍而者 銘々藩屏之
     任ニ有之候ニ付 夫々備向も可有之候由 京都御
     所司代様より御書付被成御渡候 右之通ニ而差
     寄大小炮を始 其余之兵□共 弥以御備組之面々
     者申ニ不及 御国中在御家人之子弟等ニ至迠 屹
     度其旨相心得申候 尤一己々々之存意を以騒
105
     立候様之儀有之候而者難相済 何事も御下知を
     待候様 組支配方へも精々可被示置候 以上
       四月二日

      右諸御郡一統相達
    一西洋炮稽古之儀 御奉行荒木甚四郎方へ相伺候
     次第左之通
     在御家人無給之身分 内作片手ニ稽古いたし候
     殊ニ付 御府中稽古且操練も必多度打寄 稽古者
     出来兼可申候 左様ニ候ハヽ飯米ニ而茂不被下
     候而者出来不申候段申伺候處 夫ニ者及申間敷
106
     西洋筒さへいまた出来合不申候間 先有合之筒
     丈そろそろ角打ニ而も打方いたし 操練ハ
     有折会所庭中ニても手数いたし候而も宜敷 且
     又炮術師役/\に者 西洋流稽古之事者一同ニ
     相触置候との事なり
  三日
  四日
  五日・強雨
  六日・強雨 今日増水左之通
     高瀬川八尺 安楽寺縄手床水ニ而四十丁程度
107
     畝無差障
     緑川壱丈壱尺無差障
     加勢川八尺 無差障
  七日
  八日
  九日
  十日 今日朝六時分出立ニ而 内田江出在 同所下小田
     香春ニおゐて 内田・小田・坂下・荒尾御家人中 西洋
     流操練見分之事
      惣人数五十人余 数隊交る/\操打 七頃相済
      内田会所泊
     今晩御惣庄屋共 同会所会談之事
     一御郡中海岸御手当御家人々数配一件
     一在御家人西洋法稽古等
     一右同自然之節被召仕候人操等
  十一日 今日内田手永稽古場ニ而先日試業残り諸芸見
      分     算学測量共ニ
  十二日 小田引移同所武藝見分之事
  十三日 小田海辺新地塘手損所等見分
      同所より 乗船 八代開見分 白浜村着岸 河内新道
109
      通り帰府之事
  十四日
  十五日
  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■文久三年「恕斎日録」(14)

2020-07-17 10:30:30 | 恕斎日録

92
       荒木氏より被相渡候書付写
93
     一在御家人當代幷子弟共ニ是迠相州江相詰候名前            嘉永七年(安政元年)相州警備
      一何々度相詰候との儀  一身分
      一年齢         一師役之名
       右急々取調候事
     一農兵組立之事
      高千石之村ニ大概四人位積 年十七歳より五十迠
      御郡筒之段格ニ而可宜哉 右之通被仰付候得者初
      懸り 於会所操練四五十日斗いたし 其後一ヶ月
      ニ六度程も於会所稽古之事 尤 右稽古中者飯米
94
      可被下置哉之事
       下ニ付紙 岩崎より
        本行四人 荒木氏認被申候得共 一万石ニ
        四十人 拾万石ニ四百人 五拾万石ニ弐千人
        左候ヘハ ちと不足も可有之 千石迠五人
        程者積りか申方とも噂被致候事
       右同
        本文御郡筒之段格ニ而者能過ともハ 不致候哉
        無苗ニ而影踏除 脇差壱本位ニ而も可然と
        私より略咄置候事
95
      右之通申来候ニ付 今日呼出置候諸生ニ昼迠見分
      いたし候 昼後引取可申 左候ヘハ 明日之同
      役会催ニも間ニ逢可申候段 返書仕出候事
      右之趣 今朝御小庄屋共 詰所へ呼出 右之書付
      も見セ委細申置候 右ニ付 存付候ヶ条者 少し
      も無遠慮可申達候段申聞 御惣庄屋之内 木下初
      太郎同道いたし 昼過より帰府いたし候事
        御惣庄屋中も一通り咄合見込趣等書付 初太
      郎持参候事 右外聞者御家人之中両人差上候事
      暮ニ及帰府 直ニ荒木氏ヘハ参り 夫々申向 初
96
      太郎列見込之大略も申述置候事
     一右御惣庄屋共 会議之内ニ前文□紙 影踏除
      脇差一本被差免候との儀者 治世之時ハ羽ふり宜
      ニより寸志いたし候而も 進席いたし候情態ニ有
      之候得共 只今戦場ニ被召し候際ニ□成 一命をも
      差上可申事ニ候得者 僅影踏除 脇差一本位 被
      差免候而者 一人も進可申見込無之候 壱人五俵
      被下候而 御年貢差継ニも被付候ハヽ 別段之
      事ニ月 相進見可申哉との事
     一右之内 高割之儀者 一村何人との割る付けハ六ヶ
97
      敷 人質又ハ所柄人畜之釣号も有之 場所ハ其所
      ニより一ヶ村ニ半隊又ハ一隊との見込みニ仕立可申
      との事
        右稜ハ荒木氏ニも咄候処、尤被存候 併一人
        を壱口ニ積り候ヘハ 三千人ニ而ハ一万五千
        俵相當 此方ハ出来かたく被存候との事
      右ニ付 詰め間二階ニ而同役中会談
      一御扶持不被下候而者 進かね申候見込み之事
      一五家中御手當連人餘斗ニ有之 差合可申との
       事
98
      一水夫も三千人餘有之 是も同断之事
      一人畜少之ヶ所ハ 明高有之 富国強兵ニ差障
       可申との事
      一右之通ニ付 在御家人之子弟可召仕候との事
      右之通ニ付 同役中より見こみ書附 左之通相達候事
       本文略
      農兵一件ニ付 御惣庄屋共 会談之書付ニ 同役共
      とり付紙 且又 添書ニ當時之勢に而者 遊惰独身
      之外者望申間敷候得者 たとへ一口完被下候而も
      御用ニ立兼可申 御家中連人も不足 海邊ハ水夫三
99 
      千人余有之候間 其外より良民を農兵ニ被召仕候ハ
      ゝ 明高ニ成 富国強兵え差障り可有之候間 在御
      家人之子弟御郡筒、札筒ヨリ被召仕候ハヽ 御用ニ
      相立可申見込之段 書附相認 荒木氏へ口達添 相
      達候処 同氏より農兵之儀者一応従京都被 御在京中也
      仰出候事ニ付 可或丈 相調候様有之度候得共
      行兼候訳 尤ニ相聞候間 在御家人子弟等ニ而も
      其代ニ相調候ハヽ其方ニ而も可宜欤と被存候段
      噂ニ相成候間同役中も 其趣申伝候事
       右ニ付支配所/\へ在御家人之子弟等調出候
100
       様急々 夫々相達候事 其後夫々取調相達
  廿六日
  廿七日 今月十八日 島津三郎殿京都より発駕ニ而 日
    向之内 細島と申所へ着岸ニ而 帰城野由也
    夫迠之内ニ 異船渡来いたし居候ハヽ 直ニ打拂之                 薩英戦争は7月2日~4日
    筈之由 薩州通行人申候由之事
  廿八日
  (廿九日、記載なし)
  三十日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■文久三年「恕斎日録」(13)

2020-07-16 08:34:11 | 恕斎日録

88
  十六日 今日帰府候事
    廣町原田代津次宅昼休 同所より饗應之事 帰着直ニ
    荒木氏ニ立寄 右獲物莵一ッ贈る 帰宅之上 吉広             奉行・荒木甚四郎宅
    力童莵案内いたし 千右衛門殿へも相身莵振舞候事          千右衛門=中村庄右衛門室・茂世の父
      荒木氏ハ野屋敷へ被参留守也
  十七日 今日より出勤之事 妙解寺参拝
  十八日 今日出勤之上 荒木氏へ前文南関ニ而佐分利
    又兵衛出会 手配等申付 且佐分利より承候三ヶ条
    之咄承り候処、矢張同様之噂ニ而 若薩州を異人よ
89
    り責候節 脇方より加勢居いたし候ハヽ 相手ニ取可
    申候 此方へ印を立置候ハヽ 壱切手差不申候段
    申候由也 併御隣国を見殺ニしてハ不相済候に付
    御加勢ニ而も不被差越候との噂 且中国其外国々
    惣而戦争之用意専なり 御上下御行列も惣而 股引
    半切ニ而 剱付鉄炮を負候而 頭立候者ハ馬立之上
    茶屋等ニ立寄候者ハ壱人も無之 甚厳重之御手當
    之由候へ共 御国斗リハウツトリト入居候事ハ 不
    相済候 第一西洋筒一向ニ無之 有合分茂 用立候品
    ハ少 只々ジタンダを踏候得とも 行れ不申 其上
90
    師役より西洋流を嫌 行れかね可歎次第ニ存候との
    事
  十九日
  廿日 公参 湧泉庵参拝  当月四日 将軍様御上洛            湧泉庵=中村家墓地・熊本市島崎町
    同七日 御参内 同十一日下賀茂 行幸 将
    軍様御先乗 太守様・因州様・佐竹様御供奉之段御封
    来有之候事
  廿一日
  廿ニ日 今日より武藝試業 坂下江出在之事 今朝早朝
    より出立 直ニ坂下角場ニ而 内田・坂下炮術試業
91
  廿三日 坂下・小田炮術見分 七前より雨ふり、荒尾諸藝見分、小田炮術残る
  廿四日 朝 小田炮術見分 坂下諸藝見分
  廿五日 小田諸藝見分 半相済候處ニ而 昼比より帰府候事 今朝岩崎ゟ急帰府いたし候様申来
    今朝 鶏鳴比岩崎より早打之継書着、書状回答左之通           岩崎物部・前任者、現飽田郡代
    ‐前文略‐  今日荒木氏八鼓後 自宅へ被呼候
    而 別紙写之通 書付被相渡候 諸国一統御軍備筋
    手當ニ相成候所 御国者是迠左程之儀も無之 薩州
    江者もしや夷船数十艘も参候よし 風評もいたし
    早晩 何時戦争さし起り哉も難斗世の中ニ相成候
    間 書付之通 一刻も急取調 相達候様との事ニ御
92
    座候 近比 大義之事ニ付一通リ御目者被容被成
    御帰府候ハヽ無此上候 委細ハ筆紙に認得不申 御
    帰府を奉待居申候 御惣庄屋共にも筆談ニ而は貫かね可
    申候間 今日より御同役衆より呼出を付置申候
       以下略
      三月廿四日      岩崎
          中村様
     尚申 惣躰動静など肥前小倉邊迠之処 可成急々
     外聞差出候様との儀も荒木氏江申聞候 以下略
    
    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■文久三年「恕斎日録」(12)

2020-07-15 07:02:39 | 恕斎日録

78続
  十二日 今日 南関会所 影踏見分相済候事
    右相済 大田黒隠宅泊 御墓参之事
79
  十三日 肥猪町影踏見分相済候事
     今朝 大田黒より同所へ罷越 影踏相済上ニ莵狩
     見物之事 右見物之節 明日伊東右京太夫様
     御祖母様ニ而 顕光院様御叔母御通行 南関御          御祖母様とあるが実母である。略系図参照の事。
     昼之段 申来承事
     右莵狩ニ而 四ッ取候に付 壱ッ者宿所へ遣料理
     候事 明日右御通行御茶屋昼休ニ付 今晩ハ小
     森田角左衛門宅泊り之事 右莵料理廣メ候事
     右御祖母様 顕光院様御叔母様ニ被為當候段
     初而相分候に付 山中より早打を立 御道筋同役
80
     幷熊本當番政府へも相達候処儀ニ御道筋同役も出
     在いたし候事

                                                                                                      参考略系図
                        広島藩7代        8代       9代
                        浅野重晟 -----+-----斎賢 -----+-----斎粛
                                 |        |
                               |        +---- 益(顕光院
                               |          ‖
                               |        細川斎護
                               +-------
                                   ‖---------------------祐相
                            日向飫肥藩12代   ‖   13代    14代 ↓
                                                                             +---- 伊東祐民=== 祐丕=== 祐相(右京太夫)
                                |                            ↑

                                                                               +-------------------- 祐丕
  十四日 今日南関御家人中諸藝見分之事
    今日昼四ッ比 右御祖母様御着 直ニ麻上下ニ而宿
    所より罷出 御機嫌伺候事 向方應対 壱岐職
    此方より之口上 當所郡代ニ而御座候 當所御着座
    ニ付 御機嫌伺ニ罷出候 相應之御用向も御座候ハ
    ヽ 可被仰聞候 尤私儀ハ當所江出懸居候に付 罷出
    申候 御道筋同役共ハ罷出得不申候も 可有之候
    間 其段御聞置可被下候と申向候事
81
      但通例ハ御昼ニハ同役不罷出候得とも 御間柄
      様と申 出懸居候に付 罷出候間俄之事ニ付
      御道筋同役罷出候間ニ逢かね候も難計 右之通
      申伺置候事 右為御挨拶 金子三百疋被下候
      事
    右相済 直ニ武藝見分相始 夫々相済 今晩御茶屋
    泊り之事
  十五日 今日 諸生中相催 莵狩之事
    朝六時揃 肥猪社内揃 狩場相ノ谷・野田・太田黒
    村々山中 同道ハ御惣庄屋河野太郎助 横目橋本常
82、
    右衛門列 小山支配瀬上又右衛門 横目柳原敬右衛
    門 太郎助忰 河野常八 文武倡 長野濬平 肥猪社内よ
    り急御用筋有之 引返候事 右御用筋ハ左ニ録
      惣人数百四五十人程 社内ニ猫伏を敷並 御酒頂
      戴 盃ハ茶碗 酌ハヒ勺 樽ハ田子 肴ハ数の
      子一種 子供ヘハおこし まん中を投遣し候
      小子も惣座中へ罷出 右茶碗ニ而相始 倡方を
      初 諸生中年笠之面々へ差候事
83
    右相済候処ニ而 尚下山 狩候而獲有之 惣計三疋
    取候事
    右神酒廣之節惣座ニ下り 一統へ當時之世上に付
    上よりも武藝御誘第一ニ候処 惣躰下地者強気たる
    とも 無能無藝ニ而者 不覚臆する物也 手ニ覚有
    之候得者 弱柄なるとも張立自然ニ勇気を生する也
    左れハ武藝をえ候社第一之御奉公也と申諭候                =女偏に耆とある、搘か?
    処 いつれも感伏いたし候様子ニ相見候事
    今晩岩村光行寺泊 三野村ニ而暫休 同村喜兵衛・熊吉両人呼出宿所迠召連候事
    右狩ニ罷出ノ御家人之中 才角之者ハ廿人斗りも
84
    宿所へ礼ニ参候間 其厚意を謝し 此方より申聞候
    に者 数代大禄を戴候人も 命ハ一ッなり 無格之
    御家たるとも同様之事ニ候処 各武藝を相候儀者
    物場ニ望ミ一命を差上候覚悟ニ相聞候 其中寸志之
    身分抔ハ 尚更之事ニ而 誠ニ以 奇特之志 感入
    申候 無論各一命を差上候ハヽ 我々ことき数代御知
    行を戴候者は命が百有りとも足り不申 甚以感心
    いたし候段申聞候処 御心遣有之間敷 無禄之者
    共ニ而候得とも 物場ニ望 弥一命を差上可申候
    御安心可被成と申候間ニ 感涙を催候由なり
85
    右獲物ハ分配之数無之候に付 小子へいつれも遣
    候との事ニ付 持帰候事
   一今朝 肥猪社内ニ諸生相揃候を待居候処 熊本より          大筒製造の手配
    御物頭西洋筒製造受込被仰付候 佐分利又兵衛幷小
    野庄次郎嫡子小野   両人出会いたし候処 今度
    御様子有之 至急ニ西洋筒出来被仰付候ニ付 両人
    早打 南関江罷越 其手配いたし候筈ニ付 只今是
    迄罷越候 好所ニ而出会いたし 其子才者跡より可申
    候 先手配り之方一列も夫々差図いたし呉候
    様との事ニ付 直ニ常八・濬平を呼出 地金買入
86
    之手配いたし、官銭ニ而ふり替 柳川より買入候様
    敬右衛門へ者 右夫々ニ立会候様 小山支配又右衛門ヘハ
    臺木切出し之手配いたし申付返し候事
    右之子才ハ右之者共引取候上 極密佐分利より申候
    に者 夷人イキリス軍艦二十艘横浜ニ渡来いたし
    三ヶ条之難問申懸候処  将軍様御塗中迠 奉
    伺候得共 本より御受被成かたき事柄迠ニて 若御返
    答遅ニ及候ハヽ 直ニ戦争ニ及可申候段も申懸候由
    ニ而 右三ヶ条と申ハ 一条ニ者昨年嶋津三郎生麦          生麦事件賠償問題          
    ニ而イキリス人を殺害いたし候打手ニ首を取遣し候
87
    様 一条に者右難叶候ハヽ 右之代として五十万ド
    ル右軍艦造用として差遣候様 一条ハ右両条難叶候
    ハヽ 薩州を勝手ニ責取可申候間 脇方より決して
    加勢等いたし不申 若差構候者有之者 夫をも相手
    ニいたし可申候との事なり 右之御返答日数何日と
    限 若遅ニ及候ハヽ 彼方より直ニ戦争相始可申候
    との事と 今度江戸より大田黒某罷下り彼方ニ而
    機密承り申出候由なり 右之通ニ付 今明ニも横
    浜ニ而者戦争相始候も難斗 依而段々御筒取調
    日也候処 御備手薄有之 急々増製造被仰付候との
88
    事      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする