津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

篠路兵村

2007-07-13 17:43:41 | 歴史
 日頃ご厚誼いただいているエッセイストG氏から、明治22年熊本の士族をはじめとする46名の方が屯田兵として入植された「篠路兵村(当時)」の地図をお送りいただいた。氏のご先祖様は米良氏、赤穂義士堀部弥兵衛の介錯を務めた米良市右衛門のご子孫である。
明治九年「敬神尊攘」を信条とする神風連の一員として同志百七十余人と共に挙兵し、若い命をたった米良亀雄も又一類の人である。その米良氏が明治22年篠路兵村に入られた。既に四代の星霜を重ねられているが、氏のエッセー「めら爺」などに詳しい。
 熊本人の北海道入植は明治18年に始まっている。同年七月に「江別兵村」に11家族、「野幌兵村」に21家族、明治20年5月に「新琴似兵村」に41家族、そして上記の明治22年7月「篠路兵村」に46家族、以降15の村に103の家族が入植している。最後は明治32年とある。その名簿を入手する事が出来た。先の「篠路兵村」の地図には、各家々の当主の名が記されている。これを蛍光ペンでなぞりながら、42家族の家の位置を確認する事が出来た。この時代になるともう士族だけではなく、一般の人も入植したらしい。まだ完全に編集が終わっていない「有禄士族基本帳」をひっくり返しながら、それぞれのお宅のご先祖様が分かればと、追いかけっこを始めた。さていつの事になるのか・・・
入植された方々のご子孫も、すっかり道産子となられ、肥後熊本の血が流れている事さえご存知無いかもしれない。
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細川家の大名屋敷

2007-07-13 16:22:59 | 歴史
 平成12年11月熊本大学は、第17回熊本大学附属図書館特殊資料展として、「永青文庫による・細川家(藩)の大名屋敷」という絵図の展覧会を催している。私はまだ当サイトを立ち上げておらず、情報に触れることなく未見に終わった。幸いな事にその内容をサイトから見ることが出来て幸いである。
  http://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/rare/pdf/017pdf
 先日9日このブログで「細川邸義士切腹図」と題して、サイト「赤穂義士資料館」主宰佐藤氏のブログ「おきらくごくらく」の、同名のコメントをご紹介した。(詳細はそちらを・・)右田佐助が描いたとされる「切腹図」と、「細川家御預始末記」に書かれた絵図(平面)が違う事に着目されての卓見であった。私は未見の資料であったが、佐藤氏から「赤穂義士史料・中巻」に掲載されている旨お教えを受けた。雨続きで図書館に出かけるのを躊躇している旨ご返事したら、なんと早速コピーを宅急便でお送りいただいた。ただただ感謝である。さてこの絵図をみると、佐藤氏ご指摘の事が十分理解できる。そこで先の「細川家の大名屋敷」を眺めてみると、「4、芝御屋敷絵図」がそれに該当するのではないかと思うのである。図面左上に能舞台が見える。右の黒く塗られた部分が御成御殿だと思われるが、その間に広い庭がみえる。この部分が義士切腹の場所が設えられた場所ではないのだろうか。二つの貴重な史料を見ながら、想像をたくましくしている。
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