日頃ご厚誼いただいているエッセイストG氏から、明治22年熊本の士族をはじめとする46名の方が屯田兵として入植された「篠路兵村(当時)」の地図をお送りいただいた。氏のご先祖様は米良氏、赤穂義士堀部弥兵衛の介錯を務めた米良市右衛門のご子孫である。
明治九年「敬神尊攘」を信条とする神風連の一員として同志百七十余人と共に挙兵し、若い命をたった米良亀雄も又一類の人である。その米良氏が明治22年篠路兵村に入られた。既に四代の星霜を重ねられているが、氏のエッセー「めら爺」などに詳しい。
熊本人の北海道入植は明治18年に始まっている。同年七月に「江別兵村」に11家族、「野幌兵村」に21家族、明治20年5月に「新琴似兵村」に41家族、そして上記の明治22年7月「篠路兵村」に46家族、以降15の村に103の家族が入植している。最後は明治32年とある。その名簿を入手する事が出来た。先の「篠路兵村」の地図には、各家々の当主の名が記されている。これを蛍光ペンでなぞりながら、42家族の家の位置を確認する事が出来た。この時代になるともう士族だけではなく、一般の人も入植したらしい。まだ完全に編集が終わっていない「有禄士族基本帳」をひっくり返しながら、それぞれのお宅のご先祖様が分かればと、追いかけっこを始めた。さていつの事になるのか・・・
入植された方々のご子孫も、すっかり道産子となられ、肥後熊本の血が流れている事さえご存知無いかもしれない。
明治九年「敬神尊攘」を信条とする神風連の一員として同志百七十余人と共に挙兵し、若い命をたった米良亀雄も又一類の人である。その米良氏が明治22年篠路兵村に入られた。既に四代の星霜を重ねられているが、氏のエッセー「めら爺」などに詳しい。
熊本人の北海道入植は明治18年に始まっている。同年七月に「江別兵村」に11家族、「野幌兵村」に21家族、明治20年5月に「新琴似兵村」に41家族、そして上記の明治22年7月「篠路兵村」に46家族、以降15の村に103の家族が入植している。最後は明治32年とある。その名簿を入手する事が出来た。先の「篠路兵村」の地図には、各家々の当主の名が記されている。これを蛍光ペンでなぞりながら、42家族の家の位置を確認する事が出来た。この時代になるともう士族だけではなく、一般の人も入植したらしい。まだ完全に編集が終わっていない「有禄士族基本帳」をひっくり返しながら、それぞれのお宅のご先祖様が分かればと、追いかけっこを始めた。さていつの事になるのか・・・
入植された方々のご子孫も、すっかり道産子となられ、肥後熊本の血が流れている事さえご存知無いかもしれない。