江戸時代においては「男色」とか「衆道」とかよばれるものは、容認されたもので有ったらしい。その気は無いのに、目をつけられた人にとっては迷惑な話ではある。若干十四歳の眉目秀麗な横田九郎兵衛は友人と共に、白川の河原で西岸寺の梵鐘の鋳造があるというので、見物に出かけている。そこにその気があるストーカー岩部弥太郎なるものが、刀を抜いてまで交情をせまった。九郎兵衛は止む無くこれに対応して岩部を討ち果たした。九郎兵衛は身分軽き者で有ったらしいが、穿鑿の結果「その行動が堂々たるものであった」として、士分に取り立てられた上で切腹仰せ付けられたという。藩庁の粋な取り計らいである。「横田九郎兵衛岩部弥太郎を討果す」という文書が残されている。
昨日の「小壺狩り」の続き・・・・
「鷺絵源三郎久重覚書」では、小壺を献上した「いなづ」なる人は、康之が亡くなった時追い腹をしたと記されている。これはどういうことだろうか。松井家文書に於いては、康之に殉死したのは田中理右衛門只一人としている。その故をもって子孫は「松井」の名乗りを許された。さて「小壺狩り」の「いなづ」なる人についてだが、「鷺絵源三郎久重覚書」は次のように記している。
佐渡死去ノ時イナヅ丞服(ママ・追腹)ヲ切ナリ 色々御留候へ共不聞、「兎角御恩ノ段ハ御伴申送申上ハ、御意にても聞不申」と云 「其恩ハ」と御問候へバ「未練何方二置たるぞ」と御申候つる御おん候て終二腹ヲ切候也
三齋公伝書の解説書によると「主君の佐渡から、どこかへ未練を置き忘れて来たような健気な者だ、と誉められた事を御恩と思って」追腹したとある。
さて真実は・・・「いなづ=稲津」氏ではなかろうかと思うのだが。
「鷺絵源三郎久重覚書」では、小壺を献上した「いなづ」なる人は、康之が亡くなった時追い腹をしたと記されている。これはどういうことだろうか。松井家文書に於いては、康之に殉死したのは田中理右衛門只一人としている。その故をもって子孫は「松井」の名乗りを許された。さて「小壺狩り」の「いなづ」なる人についてだが、「鷺絵源三郎久重覚書」は次のように記している。
佐渡死去ノ時イナヅ丞服(ママ・追腹)ヲ切ナリ 色々御留候へ共不聞、「兎角御恩ノ段ハ御伴申送申上ハ、御意にても聞不申」と云 「其恩ハ」と御問候へバ「未練何方二置たるぞ」と御申候つる御おん候て終二腹ヲ切候也
三齋公伝書の解説書によると「主君の佐渡から、どこかへ未練を置き忘れて来たような健気な者だ、と誉められた事を御恩と思って」追腹したとある。
さて真実は・・・「いなづ=稲津」氏ではなかろうかと思うのだが。