津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

真夏の世の夢・・さて明日は

2007-07-28 20:50:12 | 徒然
 今年は「蝉」の発生が四年ぶりとかで多いと報道があった。朝窓を開けると蝉が取り付いている。手を伸ばしても飛び立とうとしない。よくよく観察すると羽化をしてまだあまり時間がたっていないようだ。庭の木には三個ばかり抜け殻がへばりついているし、地面にはそれらしい穴がいくつか見える。大きな通りの街路樹が蝉の集合場所になっており、「ワッシ、ワッシ」と鳴き声が暑苦しい。
 暑苦しいといえば、「お願いします」の連呼がうるさかった天下分け目の選挙戦も今日で終了、さて明日国民はどのような審判を下すのか。松岡農相死去後の衆議院同時選挙の行方も興味深い。熱い選挙戦は終わったが、冷や水をかぶるのは誰か・・お楽しみ。
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細川一族の決闘

2007-07-28 18:13:30 | 歴史
 細川幽齋の末弟・三渕伊賀守好重の嫡男長岡重政が肥後三渕家の初代である。室は松井康之女(たけ)で嫡男が之直、次男が重則である。重則の子勘左衛門が嫁取りをしようとしたが反対者が出て不調となる。相手は藤田助之進(500石)の娘である。豊前街道(国道443号線)の福岡との県境に南関町があり、福岡に入ると山門郡山川町となりここに北関という所が有る。かっては北関、南関と二つの関所があったとも伝えられる。延宝元年藤田助之進は「お暇」して離国、それを追うように前川勘右衛門も「お暇」する。北関で両家一族が果し合いをして、藤田一族は討ち果たされたという事件である。女性問題が絡んだ不名誉な話だが、細川一門である前川(三渕)家としては絶対負けられない話である。事件後勘右衛門は豊後杵築で亡くなっている。自裁か・・・二十三歳。「北関始末記」「北関物語」「北関聞書」「北関秘録」といろんな文書が残されている。細川家にとっては苦々しい事件では有る。
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