織田信長の直系で一番近いのは、二男織田信雄の二男・高長の流れだといわれる。この高長は細川家とは切っても切れない因縁がある。高長の履歴を見ると信友の名乗りが見えるが、いろんな史料でも次のような詳細はなかなか窺い知れない。それは長岡主膳信友と名乗って細川忠興の下にあって、細川妙庵(幸隆)亡き後豊前竜王城を預けられていたという事実である。細川家家臣一万二千石藪内匠政一の婿になって長岡姓を名乗っている。綿孝輯録は「慶長十六年・・御家を被立退候」と記している。父信雄の遺領について、天童藩織田信昌と相続を争い細川忠利・前田利常の応援をうけて幕府の裁定を得て、大和松山の宇陀藩藩主となった。(31,000石)。高長・長頼・信武と続いたが、信武代に「宇陀崩れ」という家内の騒動で信武は自裁、嫡男信休二万石減封されて丹波の柏原(カイバラ)に転封される。その孫信旧(ノブヒサ)に細川宣紀の娘(岑姫)が嫁いだ。岑姫の兄・細川宗孝が江戸城中で誤って殺された事件では、この織田信旧が事件の処理に奔走したと伝えられる。残念ながら岑姫は24歳の若さで亡くなられている。
じつはこの柏原藩は、元々は信長の弟信包が初代藩主で三代続いたが、無嗣断絶している。信包の嫡男信重は相続争いに敗れ、伊勢・林藩主となった(10,000石)。その室は管領斯波氏の末・津川義近の娘であり三男津田次郎左衛門(三十郎長相)は細川家臣となり三百石。同じく細川家臣の伯父津川辰珍(1,250石)が三十郎に七百石を分知するという面白い出来事があった。(侍帳をご覧あれ)
じつはこの柏原藩は、元々は信長の弟信包が初代藩主で三代続いたが、無嗣断絶している。信包の嫡男信重は相続争いに敗れ、伊勢・林藩主となった(10,000石)。その室は管領斯波氏の末・津川義近の娘であり三男津田次郎左衛門(三十郎長相)は細川家臣となり三百石。同じく細川家臣の伯父津川辰珍(1,250石)が三十郎に七百石を分知するという面白い出来事があった。(侍帳をご覧あれ)