津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川つながり・織田家

2007-07-08 14:46:00 | 歴史
 織田信長の直系で一番近いのは、二男織田信雄の二男・高長の流れだといわれる。この高長は細川家とは切っても切れない因縁がある。高長の履歴を見ると信友の名乗りが見えるが、いろんな史料でも次のような詳細はなかなか窺い知れない。それは長岡主膳信友と名乗って細川忠興の下にあって、細川妙庵(幸隆)亡き後豊前竜王城を預けられていたという事実である。細川家家臣一万二千石藪内匠政一の婿になって長岡姓を名乗っている。綿孝輯録は「慶長十六年・・御家を被立退候」と記している。父信雄の遺領について、天童藩織田信昌と相続を争い細川忠利・前田利常の応援をうけて幕府の裁定を得て、大和松山の宇陀藩藩主となった。(31,000石)。高長・長頼・信武と続いたが、信武代に「宇陀崩れ」という家内の騒動で信武は自裁、嫡男信休二万石減封されて丹波の柏原(カイバラ)に転封される。その孫信旧(ノブヒサ)に細川宣紀の娘(岑姫)が嫁いだ。岑姫の兄・細川宗孝が江戸城中で誤って殺された事件では、この織田信旧が事件の処理に奔走したと伝えられる。残念ながら岑姫は24歳の若さで亡くなられている。
 じつはこの柏原藩は、元々は信長の弟信包が初代藩主で三代続いたが、無嗣断絶している。信包の嫡男信重は相続争いに敗れ、伊勢・林藩主となった(10,000石)。その室は管領斯波氏の末・津川義近の娘であり三男津田次郎左衛門(三十郎長相)は細川家臣となり三百石。同じく細川家臣の伯父津川辰珍(1,250石)が三十郎に七百石を分知するという面白い出来事があった。(侍帳をご覧あれ)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川つながり・高松藩松平家

2007-07-08 09:00:39 | 歴史
 藩祖は水戸徳川家の嫡男(頼重)である。水戸藩二代目は弟光圀(黄門)が継いだが、三代目は頼重の子・綱条が養嗣子となって継いだ。高松はといえば光圀の子・頼常が養嗣子となって二代目となる。(それぞれがそれぞれの子を養嗣子としたわけだが、ここではその詳細は省略する)三代目・四代目は藩祖頼重の子や孫である。五代目は養嗣子・松平頼恭(ヨリタカ)、正室が細川宣紀女・八代姫である。(細川宗孝妹)。六代目は八代姫の子・頼真(ヨリザネ)、正室は紀伊徳川宗直の女である。八代姫の実兄細川宗孝の正室もやはり徳川宗直女(友姫・静證院)であるから、宗孝と頼真は叔父甥でかつ相婿という関係になる。高松松平家には細川八代姫のDNAが流れているわけだが、又水戸徳川、加賀前田、徳川将軍家の血が入ることになる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする