綱利の生母・清高院の浪費に対して家老松井興長の諫言を受け、老女をもって「1/10ほどで生活してみよう」といやみたらしい返事をしている。お付の女中衆に対しても厳しいお達しが出されている。「小袖の表百五十目、かたびら八十目」とある。お姫様方は「小袖表二百五十目、帷子百五十目」としている。「お世継ぎのつくりかた」によると、将軍家綱の時代「婦女衣服制限令」が出されて、大内(京都・宮廷)並びに家門(徳川一門)に於いては「小袖の表六百目(銀)」とし、十二年後「女院・姫君銀五百目、御台所四百目、本城女房三百目」と厳しくなった。細川家におけるお触れも、これらに則したものだろう。寛文期の相場は金一両=銀五十四匁というから、細川家の女中衆の百五十目も大変なものである。下って綱利の孫・重賢は、若い頃着替えさえない状態だったと云うのに。いつの時代も女性のお洒落には泣かされるという事か・・・
いま読んでいる「お世継ぎのつくりかた」の中にある、「家康を中心とした縁組一覧」なる図には明らかな間違いがある。この図を検証しようと思いウィキペディアで調べてみると、こちらにもいろいろ間違いがあって、「削除予定」が入っている。 信じる者は・・・救われない。
信康には二人の娘があり、上の登久姫(峰高院)は小笠原秀政に嫁いだ。秀政の娘・千代姫が徳川秀忠の養女として、細川忠利に嫁いだ。一方下の熊姫(妙光院)は本多平八郎忠勝の子・忠政に嫁いでいる。その子忠刻は徳川千姫の壻殿だが胸を病んで若死にをしている。末の妹亀姫は従兄妹の小笠原忠脩(秀政嫡男)に嫁ぎ子(長次)を成したが、誕生の数日後忠脩が戦死、亀姫は幼子を伴い忠脩の弟忠真に再嫁した。故に忠真が小笠原家の総領家(小倉藩主)であるわけだ。細川家と小笠原家のつながりは、信康の血を介して深いものがある。そして千姫もまた細川忠利、小笠原忠真と「いとこ」の間柄である。細川家を親藩同様と徳川に言わしめた所以が見える。
信康には二人の娘があり、上の登久姫(峰高院)は小笠原秀政に嫁いだ。秀政の娘・千代姫が徳川秀忠の養女として、細川忠利に嫁いだ。一方下の熊姫(妙光院)は本多平八郎忠勝の子・忠政に嫁いでいる。その子忠刻は徳川千姫の壻殿だが胸を病んで若死にをしている。末の妹亀姫は従兄妹の小笠原忠脩(秀政嫡男)に嫁ぎ子(長次)を成したが、誕生の数日後忠脩が戦死、亀姫は幼子を伴い忠脩の弟忠真に再嫁した。故に忠真が小笠原家の総領家(小倉藩主)であるわけだ。細川家と小笠原家のつながりは、信康の血を介して深いものがある。そして千姫もまた細川忠利、小笠原忠真と「いとこ」の間柄である。細川家を親藩同様と徳川に言わしめた所以が見える。