津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

かいつ殿御屋敷

2009-08-07 15:24:10 | 歴史
 熊本市役所の東側に、九州郵政局の庁舎がある。その南側に現在は駐車場となっている広い敷地がある。かって熊本第一高校だったところだ。江戸時代元禄期の屋敷図を見ていたら、その場所に該当する「かいつ」と書き込みのある広い屋敷がある。現在の上通りアーケード街の一つ北側の道筋である。よくよく見ていると、綱利の生母清高院の実家・清水縫殿助の屋敷が近くに在る。これでひらめくものがあった。「かいつ」は「海津」だ。忠利室千代姫の輿入れに小笠原家からついてきた、岩間六兵衛(武田信玄・孫)の内室である。忠利の元で「大局」を勤めた。光尚代もそうであったのだろう。清高院が懐妊した際、光尚は堕胎を命じ尚且つ屋敷を下がるよう命じたというが、六兵衛が諫言し誕生に至ったという。一時期清高院は六兵衛屋敷に留め置かれている。そんなことがあっての六兵衛・海津夫妻は、それなりの発言力と力をもっていたものと思われる。清高院のご乱行に、家老松井興長が辛らつな諫言をしているが、これに対する返事が、この「かいつ」を通じて行われていることからも、この時期まだ「大局」の地位にあったものと思われる。六兵衛は江戸定詰で合ったと思われるが、この「かいつ」の広大な屋敷は、六兵衛死後「かいつ」が國元に屋敷を得たものであろう。綱利の配慮であろうか。かいつの没年は延宝二年(1674)八月である。綱利は32歳である。
忠利-光尚-綱利に仕えた。この屋敷が岩間家に継がれることは無く、「かいつ」の死と共に召し上げられたのであろう。時折つかう駐車場は、曰く因縁の土地だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする