最近は家紋に関係するサイトが沢山在って、大変重宝している。ところがどんなに探しても出てこない家紋も多い。(我が家の家紋もない)ここでご紹介する「松笠菱紋」もその一つだが、これについては「綿考輯録・藤孝公p44」以外でお目にかかったことが無い。波打った線がひし形を作り、その上下の線は内側に入りまなこのような形を作り出して、更にその中に眼球のように松笠(?)が入っているといった感じである。詳しいものを見てみたいと思うが、どなたかご存知在ればご教示いただきたい。
綿考輯録にはこの「松笠菱紋」について次のように記している。
「既に南朝の正平十年(1355)細川頼之、西岡・山崎表発向のとき、楠正儀夜討を懸、軍不意に起り、築山市正保俊一人を連、北嵯峨より帰洛之由、此時築山と鎧を着替、松笠菱の紋付たるを直にあたへ、子孫に伝ヘ候ハゝ御申候との事、築山か家記に有之、此時の感書も今以伝来致候、此砌は築山も公方御直参なり、殊に頼之の聟なり、右保俊より六代目市正俊方、藤孝君之御家士と成、松笠菱ハ代々の家紋に仕候、頼有君も松笠菱御付被成候」
御家譜抜書に「頼有公御譜中・・家之紋松笠菱代々用之」とある。
この築山家こそが、細川家根本家臣としては一ニを争う古い家ではないかと私は考えている。築山家を侍帳からご紹介すると次のようになる。
保俊(市正) 足利将軍家直参、又細川頼之婿 細川家家紋松笠菱拝領
(綿孝輯録・巻二)
弥十郎重俊(市正) 母細川頼之庶女・福(築山家・系図)
弥右衛門長俊(兵庫介)
弥右衛門俊親(兵庫頭)
弥十郎貞俊(兵庫介) 妻沼田上野介光兼女( 同上 )
細川藤孝君誕生消息 (綿孝輯録・巻一)
天文二年十二月朔日(藤孝公御母)着帯(一部略)義晴公より沼田上野介、
築山弥十郎貞俊御附被成、翌年四月廿二日万吉様御誕生被成・・・・・
1、弥十郎俊方(市正) 城州境 百石 (於豊前小倉御侍帳)
他にも「輌引」や「桐」といった、足利末流の家としての家紋を使用している細川家だが、これは頼有代以来とされる。この「松笠菱紋」は頼之代以来とされるから、更に古いものである。