津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

一座のとよみと成りにけり

2009-08-09 14:39:19 | 徒然
 幽齋の或一日である。心安い人たちが集った中での話であろう。高尚な笑いが窺える逸話。
 
 御手前御不如意に御座候故、或時大津の十四屋と申者、金を御持可被成様を教へ可申
 と申上候は、夫こそ望なれ、教てくるるならは、只今銀百枚礼に可遣と被仰候、十四屋夫
 にてハもハやなり不申、其様に金を沢山に御つかひ被成御ふんべつゆへ、びんぼう被成
 候と申て一座のとよみと成にけり

          とよむ【響む・動む】 大声を上げて騒ぐ。騒ぎ立てる。
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細川家家臣・井沢氏/上林氏

2009-08-09 11:29:17 | 歴史
 熊本市上林町の町名は、このあたりに「上林氏」とその組屋敷があったことに由来する。この町にある上林氏ノ菩提寺・宗岳寺に、熊本県古書籍商組合が建立した井沢蟠龍の石碑というものがある。(祖父の代迄上林氏を称し、父の代に本姓・井沢氏となった)
何故同組合がこのような石碑を建立したのか・・・井沢蟠龍は十郎左衛門長秀といい、多くの貴重な著作を残しているが、「肥後文献解題」によると66冊に上っている。「細川御家伝」を初めとして内容は多岐にわたり、肥後近世史研究には欠かせないものばかりである。その故を以ってである。
 この「細川御家伝」は小野武次郎の綿考輯録編纂にあたり貴重な資料となっている。この跋文に、先祖附では窺えない井沢家(上林家)の先祖に附いての記述がある。(綿考輯録・第一巻藤孝公p399から引用)

    長秀、其の先は甲州の人、氏は井沢、居ること凡そ二十世、其の後九郎左衛門
    清景、武田勝頼に仕ふ。長篠の役これに死す。其の子六郎左衛門長景移りて丹
    波の国に居る。波多野下野守秀尚に仕ふ。天正六年、秀尚、織田信長と播州に
    戦ふ。長景これに死す。其の子政景猶丹波の上林郷に在り。波多野家滅るに及
    んで、丹後に赴いて、改めて上林源太左衛門と称す。九年、藤孝公丹後を領す。
    故に政景籍を藤孝公、忠興公に通ず。実は長秀が高祖父なり。其の子政嗣、其
    子政清猶上林を以て氏と為す。其の子勘兵衛永清旧氏に復して、井沢と称す。
    実は長秀父なり。

 この記述及び其の他の史料を綜合すると、上林(井沢)家の略系図は概ね次のように成る。

 井沢清景     井沢長景     上林政景       上林政嗣     上林政春        上林
 九郎左衛門---六郎左衛門---源太左衛門---+--甚助----+--次郎左衛門---+--甚助
                              |         |           |
                              |        |           +--伝右衛門
                              |        |
                              |        +--甚十郎
                              |
                              | 井沢永清      井沢長秀・蟠龍
                               +--勘兵衛--+--十郎左衛門
                                       |
                                       +--貞右衛門

 ところが、次のような記述が綿考輯録に存在し、これには頭を抱えてしまう。
        次郎左衛門二男伝右衛門本苗に復し、井沢伝右衛門と云、慶安三年、別禄
        ニ而被召出、追々御加増、四百石被下候、内二百五十石は嫡子伝右衛門江
        被下候、今之十郎左衛門祖也、百五拾石分知、二男十太夫ニ被下候、今之
        慶助祖なり        (綿考輯禄・巻五--上林助兵衛項)
   
         話がまったくかみ合わず、上記跋文の信憑性が疑わしく思われる

 井澤蟠龍 名は長秀、通称十郎左衛門、亨斎又蟠龍子と号す。元禄十年家を継ぎ撃剣、
        抜刀、柔術をも能くす、好んで長さ三尺三寸も長刀を帯び、質性朴実にして
        邊幅を飾らず、江戸にある日神道に志し、山崎垂加流の奥秘を究め、神道に
        関する著作少からず、平居手に巻を廃てず常に学に通じ通邑大都に就かざる
        を以て憾みとす、然れども当時博学多識を以て聞ゆ、著述極めて多し(中略)
        享保十五年十二月三日歿す、年六十三、市内宗岳寺に葬る。
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