熊本市上林町の町名は、このあたりに「上林氏」とその組屋敷があったことに由来する。この町にある上林氏ノ菩提寺・宗岳寺に、熊本県古書籍商組合が建立した井沢蟠龍の石碑というものがある。(祖父の代迄上林氏を称し、父の代に本姓・井沢氏となった)
何故同組合がこのような石碑を建立したのか・・・井沢蟠龍は十郎左衛門長秀といい、多くの貴重な著作を残しているが、「肥後文献解題」によると66冊に上っている。「細川御家伝」を初めとして内容は多岐にわたり、肥後近世史研究には欠かせないものばかりである。その故を以ってである。
この「細川御家伝」は小野武次郎の綿考輯録編纂にあたり貴重な資料となっている。この跋文に、先祖附では窺えない井沢家(上林家)の先祖に附いての記述がある。(綿考輯録・第一巻藤孝公p399から引用)
長秀、其の先は甲州の人、氏は井沢、居ること凡そ二十世、其の後九郎左衛門
清景、武田勝頼に仕ふ。長篠の役これに死す。其の子六郎左衛門長景移りて丹
波の国に居る。波多野下野守秀尚に仕ふ。天正六年、秀尚、織田信長と播州に
戦ふ。長景これに死す。其の子政景猶丹波の上林郷に在り。波多野家滅るに及
んで、丹後に赴いて、改めて上林源太左衛門と称す。九年、藤孝公丹後を領す。
故に政景籍を藤孝公、忠興公に通ず。実は長秀が高祖父なり。其の子政嗣、其
子政清猶上林を以て氏と為す。其の子勘兵衛永清旧氏に復して、井沢と称す。
実は長秀父なり。
この記述及び其の他の史料を綜合すると、上林(井沢)家の略系図は概ね次のように成る。
井沢清景 井沢長景 上林政景 上林政嗣 上林政春 上林
九郎左衛門---六郎左衛門---源太左衛門---+--甚助----+--次郎左衛門---+--甚助
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| | +--伝右衛門
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| +--甚十郎
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| 井沢永清 井沢長秀・蟠龍
+--勘兵衛--+--十郎左衛門
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+--貞右衛門
ところが、次のような記述が綿考輯録に存在し、これには頭を抱えてしまう。
次郎左衛門二男伝右衛門本苗に復し、井沢伝右衛門と云、慶安三年、別禄
ニ而被召出、追々御加増、四百石被下候、内二百五十石は嫡子伝右衛門江
被下候、今之十郎左衛門祖也、百五拾石分知、二男十太夫ニ被下候、今之
慶助祖なり (綿考輯禄・巻五--上林助兵衛項)
話がまったくかみ合わず、上記跋文の信憑性が疑わしく思われる
井澤蟠龍 名は長秀、通称十郎左衛門、亨斎又蟠龍子と号す。元禄十年家を継ぎ撃剣、
抜刀、柔術をも能くす、好んで長さ三尺三寸も長刀を帯び、質性朴実にして
邊幅を飾らず、江戸にある日神道に志し、山崎垂加流の奥秘を究め、神道に
関する著作少からず、平居手に巻を廃てず常に学に通じ通邑大都に就かざる
を以て憾みとす、然れども当時博学多識を以て聞ゆ、著述極めて多し(中略)
享保十五年十二月三日歿す、年六十三、市内宗岳寺に葬る。