津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

二本木遊郭跡「日本亭」解体へ

2009-08-30 17:19:58 | 熊本
 再来年春の九州新幹線開通に向けて、熊本駅周辺が様変わりしている。
駅の南西に広がる二本木地区は、西南の役後遊郭が作られ明治三十年までつづいた、男どもの夢の跡(?)である。ここに在った「東雲楼」は全国にその名を馳せた遊郭である。楼主中島茂七は「日本亭」という建物も建てたが、これが今日まで何とか保存されて来たがついに壊される事になった。昨年には一般市民に公開されたが、保存についてはいかんともしがたい。明治30年に二本木遊郭で最大の規模を誇った『東雲楼』の娼妓101人が、廃業届を叩きつけてのストライキとなったが、そのときの様子を謡ったのが俗謡「東雲節」である。作詞・作曲者は不明だが明治34年の作だとされる。

                東雲節(ストライキ節)
    
            なにをくよくよ 川端柳
            焦がるる なんとしょ
            川の流れを 見て暮らす
            東雲の ストライキ
            さりとはつらいね てなこと
            おっしゃいましたかね

                自由廃業で 廓は出たが
                それから なんとしょ
                行き場がないので 屑拾い
                浮かれ女の ストライキ
                さりとはつらいね てなこと
                おっしゃいましたかね

                    三十三間堂 柳のお柳
                    焦がるる なんとしょ
                    可愛みどりが 綱をひく
                    住吉の 街道筋
                    よいよいよいとな てなこと
                    おっしゃいましたかね

 二本木地区は駅前再開発地区からは取り残されているが、新幹線開通という大きな節目を迎えて、変貌を余儀なくされている。
            http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/bunkazai/808/bu_808_081801.htm
            homepage2.nifty.com/tanosiki/v-enka-sino1.htm
 
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細川家の家紋・・2 (六つ銕線紋)

2009-08-30 11:27:51 | 歴史
 忠興により「九曜紋」が採用される以前は、「六つ銕線紋」が使われていたとされる。
これは山本家家記によるものだが、「夫まての御紋六ッ銕線を山本三郎右衛門正倶に被下、定紋に仕候」とある。「肥陽諸士鑑」を見ると、当時の当主文右衛門正武の家紋は、「丸に六つ銕線紋」である事が判る。そのままの「六つ銕線紋」は恐れ多いという事で、丸に入れたということであろうか。由緒ある拝領御紋である。

 三郎右衛門・正倫、正倶(宗覚) 【田辺城籠城】  
  元亀四年岩成主税を御攻被成候時、御家に来り御合力十八人扶持被下候、直に忠興君に
  仕て御懇也、九曜の御紋御付被成候後、夫迄の御紋六ッ鉄線を政倶に被下、定紋二仕候
  と申伝候、丹後御入国之節、弐百石拝領、度々の戦功あり、関原御陳後、御召之御鎧・鞍
  置馬を被下、御知行四百石に被成下(一ニ豊前ニ而五百石)その後加々山隼人被誅候時
  三郎右衛門に被仰付、友次の御刀拝領仕候、三斎様御剃髪の時、山本も剃髪、宗の字を
  被下宗覚と改申候、三斎様御逝去両年前ニ病死 (綿考輯録・巻五)
                
 「於豊前小倉御侍帳」には、三斎様御付中津ニ相詰候衆 五百石 とある。
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細川家の家紋・・1 (九曜紋・細川九曜紋)

2009-08-30 08:00:56 | 歴史
 細川家の家紋といえば「細川九曜紋」、いわゆる「はなれ九曜紋」が衆知のところであろう。その歴史はといえば、「忠興公御譜中」に「或時忠興公信長公之腰物を持ツ小刀の柄に九曜之紋有を見て愛シ衣服之紋とし信長公御感ニ而自分家紋にすべき由被仰候よう忠興公九曜を用候なり」とあり、これは九曜紋である。
 延享4年8月15日、時の藩主宗孝は月例拝賀式に登城した際、大広間脇の厠に立ったが、そこで旗本寄合衆7000石の板倉勝該に突然背後から斬りつけられる。この不幸な事件により絶命する訳だが、この事件の原因は勝該がかねてから遺恨に思っていた、本家筋にあたる安中藩主板倉勝清の家紋「九曜都巴」と、細川家の「九曜紋」とを見間違えての刃傷であった。誠に不幸な事件であったが、これを機会に細川家は「はなれ九曜紋」を採用する事になる。「細川九曜紋」と言われるものだが、是だけではなく、通常裃の五ヶ所につける家紋を、両胸・両袖表・背中に加えて両袖の裏側にもつけ加えた。後からでも一目で判るようにした、細川家独特の「細川家の七つ御紋」と呼ばれるものである。
 鈴木喬氏のご研究によると、「細川九曜紋(はなれ九曜紋)」の使用については、宗孝の事件以前にも使用していた事が確認されているという。しかしこの事件がきっかけとなり、「細川九曜紋」が正式な家紋に成った事は間違いない。

 勉強不足で、宇土細川家・鉄炮洲細川家・内膳家・刑部家が使われている九曜紋が、「細川九曜紋」なのか、一般の「九曜紋」なのか確たる情報を持たない。 

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