寛永15年2月27~28日の総攻撃で、ついに落城し終結に及んだ「有馬一揆」は、細川勢に於いても多大な被害を蒙った。熊本へ帰国した忠利は身体を休める暇もなく、沢山の書状を発している。
幕閣への報告、既知の人々、陣中への見舞いに対する返礼など祐筆の者達を叱咤しての作業であったろう。当然忠利の確認があってのことだから、多忙を極めたものと推察される。その中で忠利の心中が察せられるのが、「おしきもの共をころし候て、不便(不憫)なる儀可有推量候」という詞である。
「寛永十五年二月廿七日・八日有馬城乗ニ而手負・死人」によると、両日の総攻撃時の死者は285人、手負いは1,826人に及んでいる。忠興陣代の立孝方に於いても、死者6人・手負い48人に及んだが、何故かこの事は幕府には届けられていない。その他にも死者35人・手負い174人があるが、これは両日以外においての数である。死者の総数は326人に及んだ。
幕閣への報告、既知の人々、陣中への見舞いに対する返礼など祐筆の者達を叱咤しての作業であったろう。当然忠利の確認があってのことだから、多忙を極めたものと推察される。その中で忠利の心中が察せられるのが、「おしきもの共をころし候て、不便(不憫)なる儀可有推量候」という詞である。
「寛永十五年二月廿七日・八日有馬城乗ニ而手負・死人」によると、両日の総攻撃時の死者は285人、手負いは1,826人に及んでいる。忠興陣代の立孝方に於いても、死者6人・手負い48人に及んだが、何故かこの事は幕府には届けられていない。その他にも死者35人・手負い174人があるが、これは両日以外においての数である。死者の総数は326人に及んだ。