島原の乱の勃発は寛永14年の10月25日だとされている。
熊本に於いては、将棋を指していた家老米田監物が、島原の方面の鉄炮の音を聞いて変事に気づいたと語られている。八代に於いても中路宗悦(初・市之允・次郎左衛門 後・宗悦)が同様の音を聞きつけたことが記録に残されている。
江戸への報告、指示待ちに日を費やして行くうちに、一揆勢は天草へ攻め入り火の手は広がっていく。無能な豊後目付達は自らの判断をためらい、細川藩重臣の「天草出兵の要請」を聞き入れない。江戸に於いては忠利がやきもきしている。軍役としての弐万数千の人間をどうして渡海させるかで頭を悩ませている。
有馬一件ニ付御船加子等之事
十一月廿五日
妙解公(忠利)より半井心策老江之御書之内 御内書并公辺自他御書通之条ニ下出
一、鶴崎より舟おそくまわり候由まハし候早船十艘ハとくまハり申候
此舟にも一艘ニ四十人つゝ乗候へハ大小者候へ共四百人加子
入申候 つね/\鶴崎ニまて早船置候而熊本ニハ入不申候ゆ
へ四・五艘ならてハ無之候事
一、我等俄ニ罷下事可有之候と存其上公儀より御用も可有之とは船
大小五十艘ハ鶴崎ニ残申候 此加子四十つゝのり候へハ弐千に
て候 中/\夫ほとハ鶴崎ニ加子無之故鶴崎之船まハし可申様
無之候 其上今度のことく永引可申と留守居共不存候而も右十
艘之早船ならてハまハし申ましく候事
一、熊本之人数原又ハ天草へ参候へハすくなく候ても舟数荷舟七・八
百も入候 此加子壱艘十人つゝのり候ても加子八千人入申候
なにと仕候而はや船斗にて加子もつゝき可申哉中/\壱艘ニ十人
つゝ加子のせ候事不罷成漸々七人・八人のせ申候つる由ニ候
扨壱艘ニ人数三十人つゝのり候而も弐万四千ならてハのり不申候
船大小ならし候て右之分ニ候 其舟ニ武具・馬のせ候へハ中/\
人夫かけ候へハ多クハ人のり申不候 加様ニ加子入候而はや舟
斗成事にて無之候 はや舟百艘共参候へハ人ハ漸々弐拾つゝも
乗不申候 百艘之舟二ハ四千加子入候 左候而人数ハ弐拾つゝ
のり候て弐千ならてハのり不申候故はや舟なと多くの候事ハ中々
成ものニて無之候事
細川勢がようやく出陣したのは12月2日である。6日三角から舟にて出発、翌7日大矢野に上陸するも一揆勢は引揚げた跡である。12月11日光尚が現地に入った。(上津浦) 細川勢には島原出陣の命が出されない中、島原の隣国の大名等を主とする軍勢が、年が替わった正月朔日原城を攻め大敗を期すことになる。其のことを知った光尚が天草から有馬に入るのは翌二日の事である。奇しくも其の日、江戸に在る忠利は御暇を与えられ、即刻熊本に向っている。26日には有馬に到着し、原城攻めの中心人物としての日々を過ごす事になる。二月廿七日の落城・翌廿八日の事実上の終戦を経て、また多くの人々が船に乗り込み熊本へと凱旋していくのである。多くの死傷者を出し悲喜こもごもの思いを乗せて、有明・不知火の海は大小さまざまな船で覆い尽くされていたのであろう。
熊本に於いては、将棋を指していた家老米田監物が、島原の方面の鉄炮の音を聞いて変事に気づいたと語られている。八代に於いても中路宗悦(初・市之允・次郎左衛門 後・宗悦)が同様の音を聞きつけたことが記録に残されている。
江戸への報告、指示待ちに日を費やして行くうちに、一揆勢は天草へ攻め入り火の手は広がっていく。無能な豊後目付達は自らの判断をためらい、細川藩重臣の「天草出兵の要請」を聞き入れない。江戸に於いては忠利がやきもきしている。軍役としての弐万数千の人間をどうして渡海させるかで頭を悩ませている。
有馬一件ニ付御船加子等之事
十一月廿五日
妙解公(忠利)より半井心策老江之御書之内 御内書并公辺自他御書通之条ニ下出
一、鶴崎より舟おそくまわり候由まハし候早船十艘ハとくまハり申候
此舟にも一艘ニ四十人つゝ乗候へハ大小者候へ共四百人加子
入申候 つね/\鶴崎ニまて早船置候而熊本ニハ入不申候ゆ
へ四・五艘ならてハ無之候事
一、我等俄ニ罷下事可有之候と存其上公儀より御用も可有之とは船
大小五十艘ハ鶴崎ニ残申候 此加子四十つゝのり候へハ弐千に
て候 中/\夫ほとハ鶴崎ニ加子無之故鶴崎之船まハし可申様
無之候 其上今度のことく永引可申と留守居共不存候而も右十
艘之早船ならてハまハし申ましく候事
一、熊本之人数原又ハ天草へ参候へハすくなく候ても舟数荷舟七・八
百も入候 此加子壱艘十人つゝのり候ても加子八千人入申候
なにと仕候而はや船斗にて加子もつゝき可申哉中/\壱艘ニ十人
つゝ加子のせ候事不罷成漸々七人・八人のせ申候つる由ニ候
扨壱艘ニ人数三十人つゝのり候而も弐万四千ならてハのり不申候
船大小ならし候て右之分ニ候 其舟ニ武具・馬のせ候へハ中/\
人夫かけ候へハ多クハ人のり申不候 加様ニ加子入候而はや舟
斗成事にて無之候 はや舟百艘共参候へハ人ハ漸々弐拾つゝも
乗不申候 百艘之舟二ハ四千加子入候 左候而人数ハ弐拾つゝ
のり候て弐千ならてハのり不申候故はや舟なと多くの候事ハ中々
成ものニて無之候事
細川勢がようやく出陣したのは12月2日である。6日三角から舟にて出発、翌7日大矢野に上陸するも一揆勢は引揚げた跡である。12月11日光尚が現地に入った。(上津浦) 細川勢には島原出陣の命が出されない中、島原の隣国の大名等を主とする軍勢が、年が替わった正月朔日原城を攻め大敗を期すことになる。其のことを知った光尚が天草から有馬に入るのは翌二日の事である。奇しくも其の日、江戸に在る忠利は御暇を与えられ、即刻熊本に向っている。26日には有馬に到着し、原城攻めの中心人物としての日々を過ごす事になる。二月廿七日の落城・翌廿八日の事実上の終戦を経て、また多くの人々が船に乗り込み熊本へと凱旋していくのである。多くの死傷者を出し悲喜こもごもの思いを乗せて、有明・不知火の海は大小さまざまな船で覆い尽くされていたのであろう。