水前寺成趣園にある「古今伝授の間」は、現在改修工事の最中である。
www.kobai.jp/kokin/index.htm
kokindenjunoma.hinokuni.info/100/110
この建物は慶長五年、後陽成天皇の弟宮・智仁親王に幽齋が古今伝授をした建物とされる。伝授の途中で幽齋の居城が石田三成方の軍勢15,000の包囲をうける。朝廷は和睦の斡旋をするも幽齋は是を拒絶、死を覚悟した幽齋は智仁親王に、古今伝授の箱と相伝証明状を届けたのである。朝廷は勅使を派遣し再度の和睦を斡旋、幽齋もこれを受け入れ開城したのである。
元亀三年壬申十二月、三丞大納言実澄卿より、古今御相伝可被成との事にて、御誓状を
被進候、証明状ハ天正四年御請被成候し、抑古今伝授之事ハ、中古鳳闕にも絶たりしを、
濃州の士東下野守平常縁是を伝得て、紀州之種玉庵宗祗法師へ伝へ、宗祗より西三条
内府実隆公逍遥院と号に伝ふ、其息右府公条公弥名院と号其息内府実澄公初実世後実枝三光院
殿と号より藤孝君に御伝授し也、此時は大納言ニ而候、天正七年正月一ニ天正六年四月と有ハ
誤なり内大臣ニ被任、同月廿四日薨、右実澄公より御相伝之節之証明状、御誓状扨又幽齋
君に御相伝を御受候ひし方々、式部卿智仁親王、中院中納言通勝卿、烏丸大納言光広卿、
西三条内府公国公始公光中公明、天正十五年任内大臣、同年十二月薨、号山智院、同右大臣実条公香
雲院と号す 武家にては嶋津修理大夫義久入道龍白なり、其証明状誓状等之留書を後年烏
丸資慶卿より細川丹後守殿江写被進(以下略)
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この建物は慶長五年、後陽成天皇の弟宮・智仁親王に幽齋が古今伝授をした建物とされる。伝授の途中で幽齋の居城が石田三成方の軍勢15,000の包囲をうける。朝廷は和睦の斡旋をするも幽齋は是を拒絶、死を覚悟した幽齋は智仁親王に、古今伝授の箱と相伝証明状を届けたのである。朝廷は勅使を派遣し再度の和睦を斡旋、幽齋もこれを受け入れ開城したのである。
元亀三年壬申十二月、三丞大納言実澄卿より、古今御相伝可被成との事にて、御誓状を
被進候、証明状ハ天正四年御請被成候し、抑古今伝授之事ハ、中古鳳闕にも絶たりしを、
濃州の士東下野守平常縁是を伝得て、紀州之種玉庵宗祗法師へ伝へ、宗祗より西三条
内府実隆公逍遥院と号に伝ふ、其息右府公条公弥名院と号其息内府実澄公初実世後実枝三光院
殿と号より藤孝君に御伝授し也、此時は大納言ニ而候、天正七年正月一ニ天正六年四月と有ハ
誤なり内大臣ニ被任、同月廿四日薨、右実澄公より御相伝之節之証明状、御誓状扨又幽齋
君に御相伝を御受候ひし方々、式部卿智仁親王、中院中納言通勝卿、烏丸大納言光広卿、
西三条内府公国公始公光中公明、天正十五年任内大臣、同年十二月薨、号山智院、同右大臣実条公香
雲院と号す 武家にては嶋津修理大夫義久入道龍白なり、其証明状誓状等之留書を後年烏
丸資慶卿より細川丹後守殿江写被進(以下略)