忠利が松野織部・町三右衛門に宛てた、何時の頃のものか判然としない次のような文書がある。
我等内大木織部粟田口國吉之脇差佐々平馬と申者を頼本阿弥へときニ京へ
遣候処加藤右馬之允其脇差を江戸へ取候て下りたそ出頭衆ニ見せやすく放
我か進物ニ可仕とのたくミと聞候丹後殿御覧有度様ニ申候て取て下たる由加
藤平左ヱ門かたより織部所へ申越事之外肝をつふし此者を下候祖父已来持
候脇差ニ而唯今放申儀ニて無之候少も放可申候て上せ申儀にて無之候故只
今右馬允所へ如此申候て人を下候右馬允かたへの織部状持せ遣候被見候
て封シ織部者ニ可遣候脇差之儀ハ今程放申脇差にて無之由申候然共是ハ我
等ものニて候間丹後殿はや御覧候て御所望ニ候ハゝ可申聞候此あち七郎兵
衛・盛甫にも能々可申候未無御覧右之脇差右馬允返候ハゝ織部ものより其方
共受取置慥成便宜ニ此方へ可下候謹言
三月廿八日 (忠利)
松野織部殿
町三右衛門殿
此わき差之事我々さゝハり候様ニ申候間其あち両人江態可申候但丹後
殿へ不及申との事ニ候ハゝしらぬ分にもくるしからす已上
猶/\國吉之わき指丹後殿于今無御覧候ハゝ猶々右之あち能々申候て
置可申候此織部状参候ハゝ急ニ出頭衆への進物ニ仕事可有之候間為其
候わき指を我々ほしかり候て申候様ニ仕なし可申候其段合点仕候て可申
候以上
大木織部とは大木兼憲のことで、加藤清正に殉死した大木兼能の孫である。
佐々平馬とは大木兼能の娘婿、あの水戸光圀の家臣・佐々助三郎のじい様である。勿論佐々友房へと至る熊本佐々家の祖である。この織部が叔父である佐々平馬を通じて、「粟田口國吉之脇差」を本阿弥(光悦一族カ)に砥ぎに出した。処がこの刀を、祖父・兼能の加藤清正時代の同僚・加藤右馬允()が取り上げたらしい。大変面白いのは、其のことを加藤平左衛門が連絡をしてきたという事である。熊本城天守閣下に「平左衛門丸」という屋敷(現存しない)を残したこれまた清正の重臣である。大木織部は寛永十年に召し出されているが、当時十四歳であったとされる。宛名に有る町三右衛門は当時の江戸留守居役であるが、寛永十五年六月の忠利の書状に「三右衛門もしに(死に)・・・」として、江戸留守居の補充を考慮しているものがある。このことからすると、織部の召しだしの寛永十年から、三右衛門の死の寛永十五年の間の文書であるということに成る。
いずれにしても二十歳には至っていない織部だが、百戦錬磨の加藤右馬之允にしてやられたという事だろうか。その後の「粟田口國吉之脇差」の行方を追っている。
参考:粟田口派 【 http://www.n-p-s.net/jidai.htm から引用 】
粟田口は京から近江へ通じる関門であり、ここに平安時代から鍛冶が在住したことは『宇治拾遺物語』に記され、鎌倉初期から中期にかけて幾多の名工を輩出している。後鳥羽院番鍛冶に召されたと云える国友・久国・国安と国清・有国・国綱の6兄弟がいて時代を建久(1191)ごろと伝える。さらに国友の子に国吉・国光がいる。また国吉の弟子に藤四郎吉光がいて短刀の名手として名高い。
国友・久国など鎌倉初期の名工の作風は鍛が小板目肌がよく約んできれいで地沸が金砂子を散らしたように厚く美しいのが特色で、刃文に小乱刃と直刃の二様があるがいずれも小沸のよくついたものである。
我等内大木織部粟田口國吉之脇差佐々平馬と申者を頼本阿弥へときニ京へ
遣候処加藤右馬之允其脇差を江戸へ取候て下りたそ出頭衆ニ見せやすく放
我か進物ニ可仕とのたくミと聞候丹後殿御覧有度様ニ申候て取て下たる由加
藤平左ヱ門かたより織部所へ申越事之外肝をつふし此者を下候祖父已来持
候脇差ニ而唯今放申儀ニて無之候少も放可申候て上せ申儀にて無之候故只
今右馬允所へ如此申候て人を下候右馬允かたへの織部状持せ遣候被見候
て封シ織部者ニ可遣候脇差之儀ハ今程放申脇差にて無之由申候然共是ハ我
等ものニて候間丹後殿はや御覧候て御所望ニ候ハゝ可申聞候此あち七郎兵
衛・盛甫にも能々可申候未無御覧右之脇差右馬允返候ハゝ織部ものより其方
共受取置慥成便宜ニ此方へ可下候謹言
三月廿八日 (忠利)
松野織部殿
町三右衛門殿
此わき差之事我々さゝハり候様ニ申候間其あち両人江態可申候但丹後
殿へ不及申との事ニ候ハゝしらぬ分にもくるしからす已上
猶/\國吉之わき指丹後殿于今無御覧候ハゝ猶々右之あち能々申候て
置可申候此織部状参候ハゝ急ニ出頭衆への進物ニ仕事可有之候間為其
候わき指を我々ほしかり候て申候様ニ仕なし可申候其段合点仕候て可申
候以上
大木織部とは大木兼憲のことで、加藤清正に殉死した大木兼能の孫である。
佐々平馬とは大木兼能の娘婿、あの水戸光圀の家臣・佐々助三郎のじい様である。勿論佐々友房へと至る熊本佐々家の祖である。この織部が叔父である佐々平馬を通じて、「粟田口國吉之脇差」を本阿弥(光悦一族カ)に砥ぎに出した。処がこの刀を、祖父・兼能の加藤清正時代の同僚・加藤右馬允()が取り上げたらしい。大変面白いのは、其のことを加藤平左衛門が連絡をしてきたという事である。熊本城天守閣下に「平左衛門丸」という屋敷(現存しない)を残したこれまた清正の重臣である。大木織部は寛永十年に召し出されているが、当時十四歳であったとされる。宛名に有る町三右衛門は当時の江戸留守居役であるが、寛永十五年六月の忠利の書状に「三右衛門もしに(死に)・・・」として、江戸留守居の補充を考慮しているものがある。このことからすると、織部の召しだしの寛永十年から、三右衛門の死の寛永十五年の間の文書であるということに成る。
いずれにしても二十歳には至っていない織部だが、百戦錬磨の加藤右馬之允にしてやられたという事だろうか。その後の「粟田口國吉之脇差」の行方を追っている。
参考:粟田口派 【 http://www.n-p-s.net/jidai.htm から引用 】
粟田口は京から近江へ通じる関門であり、ここに平安時代から鍛冶が在住したことは『宇治拾遺物語』に記され、鎌倉初期から中期にかけて幾多の名工を輩出している。後鳥羽院番鍛冶に召されたと云える国友・久国・国安と国清・有国・国綱の6兄弟がいて時代を建久(1191)ごろと伝える。さらに国友の子に国吉・国光がいる。また国吉の弟子に藤四郎吉光がいて短刀の名手として名高い。
国友・久国など鎌倉初期の名工の作風は鍛が小板目肌がよく約んできれいで地沸が金砂子を散らしたように厚く美しいのが特色で、刃文に小乱刃と直刃の二様があるがいずれも小沸のよくついたものである。