「有馬城乗之刻働之衆 他国衆牢人衆 証拠に被立候帳」(部分御舊記・軍事部十一・・熊本縣史料・近世編三p249)に次のようなものがある。
これは寛永十五年七月廿三日付坂崎内膳宛、長岡佐渡守・有吉頼母佐の報告書(抜粋)である。
相果申候
一、安場仁左衛門
二月廿七日二ノ丸大手の門口にて鑓を合左のかいな突ぬかれ
手叶不申候二付小屋へ罷帰候
証人 細田栖院
生田四郎兵衛
小河内少兵衛
さて、細田栖院(栖隠)とは、荒木村重の孫とされる左馬助のことであるが、8/23のブログ「荒木左馬助消息」でご紹介したように、有馬城(原城)の陥落の日に忠利に御目見をしている。寛永諸家系図伝に「同(寛永)十五年春、肥州嶋原の軍事にをもむき、二月二十七日に彼地につき、すなはち細川肥後守(光尚)が手に属して微志をはげます」とある。つまり、二十七日に有馬に着いた左馬助は即戦場に入ったことになる。そして安場仁左衛門の働きぶりを目撃し、証人としての役目を果たした訳である。「他国衆・牢人衆」として紹介されているところを見ると「光尚が手に属して」というのは疑わしい。「此時はじめて上使松平伊豆守信綱にまみゆる」とある所を見ると、信綱の許にあったのだろう。烏丸大納言の紹介を得て、忠利に御目見したが「其後陳場へ御尋も無之候故其時之首尾をも然々不承候」とあるが、このような証人としての役目を果たしているところを見ると、しばらくの間熊本に滞在したのであろう。後には細川家家臣となるとは、思いもしなかったであろうに・・・
これは寛永十五年七月廿三日付坂崎内膳宛、長岡佐渡守・有吉頼母佐の報告書(抜粋)である。
相果申候
一、安場仁左衛門
二月廿七日二ノ丸大手の門口にて鑓を合左のかいな突ぬかれ
手叶不申候二付小屋へ罷帰候
証人 細田栖院
生田四郎兵衛
小河内少兵衛
さて、細田栖院(栖隠)とは、荒木村重の孫とされる左馬助のことであるが、8/23のブログ「荒木左馬助消息」でご紹介したように、有馬城(原城)の陥落の日に忠利に御目見をしている。寛永諸家系図伝に「同(寛永)十五年春、肥州嶋原の軍事にをもむき、二月二十七日に彼地につき、すなはち細川肥後守(光尚)が手に属して微志をはげます」とある。つまり、二十七日に有馬に着いた左馬助は即戦場に入ったことになる。そして安場仁左衛門の働きぶりを目撃し、証人としての役目を果たした訳である。「他国衆・牢人衆」として紹介されているところを見ると「光尚が手に属して」というのは疑わしい。「此時はじめて上使松平伊豆守信綱にまみゆる」とある所を見ると、信綱の許にあったのだろう。烏丸大納言の紹介を得て、忠利に御目見したが「其後陳場へ御尋も無之候故其時之首尾をも然々不承候」とあるが、このような証人としての役目を果たしているところを見ると、しばらくの間熊本に滞在したのであろう。後には細川家家臣となるとは、思いもしなかったであろうに・・・