津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

有馬一揆と細田栖院

2009-08-26 19:01:43 | 歴史
 「有馬城乗之刻働之衆 他国衆牢人衆 証拠に被立候帳」(部分御舊記・軍事部十一・・熊本縣史料・近世編三p249)に次のようなものがある。
これは寛永十五年七月廿三日付坂崎内膳宛、長岡佐渡守・有吉頼母佐の報告書(抜粋)である。

 相果申候
 一、安場仁左衛門
     二月廿七日二ノ丸大手の門口にて鑓を合左のかいな突ぬかれ
     手叶不申候二付小屋へ罷帰候
          証人       細田栖院
                    生田四郎兵衛
                    小河内少兵衛

 さて、細田栖院(栖隠)とは、荒木村重の孫とされる左馬助のことであるが、8/23のブログ「荒木左馬助消息」でご紹介したように、有馬城(原城)の陥落の日に忠利に御目見をしている。寛永諸家系図伝に「同(寛永)十五年春、肥州嶋原の軍事にをもむき、二月二十七日に彼地につき、すなはち細川肥後守(光尚)が手に属して微志をはげます」とある。つまり、二十七日に有馬に着いた左馬助は即戦場に入ったことになる。そして安場仁左衛門の働きぶりを目撃し、証人としての役目を果たした訳である。「他国衆・牢人衆」として紹介されているところを見ると「光尚が手に属して」というのは疑わしい。「此時はじめて上使松平伊豆守信綱にまみゆる」とある所を見ると、信綱の許にあったのだろう。烏丸大納言の紹介を得て、忠利に御目見したが「其後陳場へ御尋も無之候故其時之首尾をも然々不承候」とあるが、このような証人としての役目を果たしているところを見ると、しばらくの間熊本に滞在したのであろう。後には細川家家臣となるとは、思いもしなかったであろうに・・・
コメント (4)
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細川隆一郎氏逝く

2009-08-26 09:14:09 | 徒然
 歯に衣を着せぬ発言で人気を博した、政治評論家・細川隆一郎氏が亡くなられた。
謹んでご冥福をお祈り申上げたい。

 大きな眼と破顔一笑の笑顔が印象的だった。細川隆元氏のご子息と思っていた人も多かったようだが、隆元氏とは叔父-甥の間柄である。細川忠興の嫡男・忠隆の流れを汲むいわゆる内膳家で、ガラシャ夫人の血をひくお家柄である。
内膳家は八代・忠寿が亡くなった跡、嫡男忠穀が幼少であった為、弟忠顕が九代目を継いだ。十代目は忠穀が継ぎ忠雄-忠督へと継承された。
九代忠顕の弟・隆虎の二男の子が隆一郎氏、隆元氏は隆虎の三男である。
隆一郎氏のご子息隆三氏はテレビ朝日政治部記者、TVでその活躍ぶりを拝見している。愛娘珠生さんは政治ジャーナリスト、洗礼名はガラシャである。
内膳家は他家から養子が入った事はなく、ガラシャの血が途切れることなく受け継がれている。
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