今までまったく気づかないでいたが、護貞様の御著「細川幽齋」の慶長四年己亥の試筆の紹介に、括弧書で(『衆妙集』には「孝之に家督相続し侍るとての元旦に」とあり)として、つぎの歌が紹介されている。
あら玉の今年はよをもゆづりはの常盤の色にならへとぞ思ふ
孝之は幽齋の四男、天正十三年生まれとされるから長兄・忠興とは22歳も歳が離れている。称長岡、茶知丸、茶千丸、孝(幸)紀、與十郎、與一郎、中務少輔、薙髪後休齋宗也
幽齋五十一歳のころの生まれであるから、可愛がりようも一方ならぬものがあったのであろう。時慶卿記に「ちゃち」と記されて幽齋ともどもの消息が窺える。
豊前に入り香春城を預かり25,000石これが幽齋の隠居料だとされる。上記慶長四年に正式に家督されたのだろうか。いささか勉強不足で承知しないでいる。
のちに退身、忠利から三百人扶持を与えられている。忠利公の豊前時代の「御侍帳并軽輩末々共ニ」にもそのことが記されている。家記では窺えない娘(二女か)の名が「十良」とあり、百石が与えられている。「とら」と読むのか、「幽齋様五男(ママ)也・長岡中務孝之殿女」とある。
叔父孝之は、一つしか歳の違わぬ忠利にとっては扱いにくい存在であったらしく、表立ってのぼやきの文書も残されている。
我等おち休斎事我等申候事を不被聞候間中を違候 就其
又上度由被申候間主儘与申候 乍去我等者中違二而候
故、三齋ハ御構候事不成候故、立允笑止かり主知行所へ
よひ候て置候様ニ聞候緞(ママ)又其替り被上候事も可在之
候 段々約束違候て心儘二候間右之分ニ候 それ故主身
躰之事も今ハ構不申候 何事そと可存候間申遣候 段々
御入候なかき儀ニ候間、此度不申候 左門殿なと御尋候
ハゝ此前かしらをそり京へ被上候時 色々かための書物な
と被申付候 左様之事違候とて腹を被立しかり被申候由ニ
候 今弟之知行へはいり候而被居候由承候通御尋候ハゝ
可申事
(熊本縣史料・近世編第二 p140 該当部分抜粋)
肥後入国後は兄・三齋から500石の禄を得ている。(上記文書では、「今弟之知行へはいり候」とあるが?)三齋が亡くなって二年後正保四年七月七日卒高桐院に葬られた。歳六十三。泰林院一空宗也
付け足し:護貞様の御著「魚雁録」にある一文に、「香春」にルビがあり「かはる」とあった。
難読地名の一つで、校正の間違いであろうが「かわら」が正解である。