津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

加藤重徳の妹

2011-01-16 21:48:32 | 歴史

 加藤重徳なる人物がある。荒木村重により有岡城内の牢に幽閉された黒田如水をなにかと面倒を見、如水はその恩に報いて重徳の二男三左衛門を養子とした。黒田八虎として勇名をはせ、のち筑前美奈木に居館を構え16,000石を領して大老を務め明治に至った。
重徳の嫡男加藤吉成も後父ともども黒田氏に仕え、子孫も代々藩中で重きをなした。幕末の加藤司書は勤皇派として知られたが、維新の僅か二年前「乙丑の獄」で粛清されて無念の死を迎えた。その数180名とも言われ、筑前黒田家は完全に明治維新の蚊帳の外に置かれた。

 前置きが長くなったが、この重徳を遠祖とする三奈木黒田家の系図を見ると、驚くべきことが書かれてある。それは重徳の妹なる女性を、「細川兵部大輔藤孝室・法名大法院日周」だとし、「越中守忠興母也」としていることである。

 信じがたいことではあるが、黒田家大老の家の系図であり、その出所も確かなものであるため、わたしもいささか動転している。「越中守忠興母也」はないとしても、側室としてありえたかもしれないとも考えられる。

 加藤重徳は伊丹左衛門大夫の初名が物語るように、伊丹氏である。その室は伊丹安藝守親保女である。嫡男は細川忠興の愛妾・郡氏(松の丸殿)の父郡宗保である。また忠興が黒田家と争うようにして召しだした黒田(伊丹)蔵人の室は宗保の妹である。(蔵人の家系は途絶えているが、黒田家系図によると継嗣が若くしてなくなったことにより絶家したようだ)

 これらの符合は頭書の、「細川兵部大輔藤孝室・法名大法院日周」との関係を匂わせるものではないのか・・・・・大変興味が尽きない。

 何らかの情報をお持ちの方は、是非ともお教えをいただきたい。

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熊本城乾(いぬい)櫓

2011-01-16 10:04:06 | 歴史

 忠利公の息女竹姫は有吉頼母佐英長に嫁いでいる。
英長は有吉本家四代の有吉英貴の嫡男である。英貴は兄興道(三代)が36歳という若さでなくなったため忠興の命により本家を相続した。興道の子貞之が若年であったことも関係している。貞之は英貴の長女を娶り本家を相続(五代)した。

 英貴嫡男の英長は、正保二年父英貴の死去に伴い跡式拝領、10歳であった。
承応二年十一月家老職に就くが寛文二年五月京都で亡くなった。26歳の若さである。
殉死者が二人あったという。重複するがその室が忠利女竹姫である。

佐々木有吉------有吉立言 ---+
                     |
 +-----------------------+
 |   武蔵守
 +---有吉立行---+--興道----+---貞之・・・・・・・・・・・・・・・→ 有吉本家
 |           |       |
 +---芦九太夫   |       +---勝之 絶家
             |
             |       +--●大木織部嫁---○
             |       |             ↓
             +--英貴---+---英長========直常・・・→ 有吉分家・英貴流
             |       |    ∥
             | 細川忠利-----竹姫
             |       |
             |       +==市郎兵衛(雅楽)・・・・・・・→ 有吉分家・市郎兵衛流
             | 三女
             +---●
                 ∥-------- +--有吉助之進 有吉家士
          冨田与兵衛重冬     |
                         +--●(松野亀右衛門・嫁)
                         |                 二男
                         +--●(堀新五右衛門・嫁)---藤松
                         |                   ↓
                         +--戸田吉十郎 有吉家士
                         |
                         +--有吉雅楽 有吉英貴養子となる
                         | 光尚殉死           堀新五左衛門二男藤松
                         +--冨田小左衛門====小左衛門・・・・・→冨田家

 二の丸から熊本城をのぞむと左端に三層の乾櫓が在る。
この櫓を、別名「長寿院様御丸三階御矢蔵」と呼んだという。北大手門から入ると右手にあたる一帯で米倉があったとされる場所(西出丸)の隅櫓である。熊本市文化財専門相談員の富田紘一氏のお話によると、寛文6年にはそう読んでいたとされるから、有吉英長が亡くなった後この場所に屋敷があり、余生を過ごされたのであろう。

 竹姫は寛永14年3月18日生まれ(母・姓氏不詳)、元禄7年11月24日没、年58。
法号長壽院心空宗本。島崎霊樹庵に葬る。

 英長が元気であれば、有吉本家を相続していたのではないかと思っている。
英貴家は英長の姉たつ(大木織部兼久室)の二男・直常が継ぎ(初代)、明治に至っている。

コメント (2)
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