加藤重徳なる人物がある。荒木村重により有岡城内の牢に幽閉された黒田如水をなにかと面倒を見、如水はその恩に報いて重徳の二男三左衛門を養子とした。黒田八虎として勇名をはせ、のち筑前美奈木に居館を構え16,000石を領して大老を務め明治に至った。
重徳の嫡男加藤吉成も後父ともども黒田氏に仕え、子孫も代々藩中で重きをなした。幕末の加藤司書は勤皇派として知られたが、維新の僅か二年前「乙丑の獄」で粛清されて無念の死を迎えた。その数180名とも言われ、筑前黒田家は完全に明治維新の蚊帳の外に置かれた。
前置きが長くなったが、この重徳を遠祖とする三奈木黒田家の系図を見ると、驚くべきことが書かれてある。それは重徳の妹なる女性を、「細川兵部大輔藤孝室・法名大法院日周」だとし、「越中守忠興母也」としていることである。
信じがたいことではあるが、黒田家大老の家の系図であり、その出所も確かなものであるため、わたしもいささか動転している。「越中守忠興母也」はないとしても、側室としてありえたかもしれないとも考えられる。
加藤重徳は伊丹左衛門大夫の初名が物語るように、伊丹氏である。その室は伊丹安藝守親保女である。嫡男は細川忠興の愛妾・郡氏(松の丸殿)の父郡宗保である。また忠興が黒田家と争うようにして召しだした黒田(伊丹)蔵人の室は宗保の妹である。(蔵人の家系は途絶えているが、黒田家系図によると継嗣が若くしてなくなったことにより絶家したようだ)
これらの符合は頭書の、「細川兵部大輔藤孝室・法名大法院日周」との関係を匂わせるものではないのか・・・・・大変興味が尽きない。
何らかの情報をお持ちの方は、是非ともお教えをいただきたい。