泰勝寺のすぐ近くに細川家御一門の「刑部家」の菩提寺慈眼庵がある。泰勝寺の塔頭であったと言うが其の痕跡は見当たらず、「刑部家」一族のお墓がすごい数で整然と並んでいる。一度詳しく拝見したいと思うのだが、勝手に入ることもはばかられて未だ外からの拝見に止めている。
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忠興公と五男・刑部少輔興孝(刑部家祖)の仲違いはつとに有名だが、その原因が何であるのかよく判らない。天草島原の乱の勃発の際、證人として江戸にあった興孝は忠興にたいして出陣することを強く願ったらしいが、これは将軍家のご指示に従うべきとしている。案外こんなところが原因なのではないかと考えている。二歳から21年に及ぶ證人としての江戸暮らしも、鬱憤の原因であったのかもしれない。帰国途中に病気となり剃髪、帰国後も菊池に在郷し、府中に屋敷を構えるのは正保三年九月と言うから、忠興の死後九ヵ月後の事である。
於豊前小倉御侍帳(妙解院忠利公御代・於豊前小倉御侍帳并軽輩末々共ニ)によると、「興孝公 御子孫今御国一門ニ而長岡之称号也、但御嫡男興之公御早世ニヨツテ断絶、御二男御取立興知公ヨリ新知一万石ニ而長岡之称号(御)国一門也、已前ハ御連枝様ニ而細川之御称号也」とある。興孝の隠居により跡式相続した二代興之は25歳の若さでなくなった。知行差上となり御連枝細川刑部家嫡流は断絶の取り扱いとなり、弟興知が新知一万石を拝領し、後は一門としての扱いとなり長岡姓となったわけである。これもまた「御一門払い」の一貫とするのは考えすぎであろうか。後、刑部家・内膳家の二家を御一門と称する。
子飼にあった下屋敷が現在城内三の丸に移転されて、藩主一門の武家屋敷の有様を現在に伝え、多くの観光客の目を楽しませている。
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30年ほども前であろうか、泰勝寺の邸内に住まわれていたご子孫の長岡度世様にたびたびお目にかかる機会があった。古武士然とした風格が今でも思い出される。いろいろお聞きしておきたかったという思いでいっぱいである。