津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

隈庄城跡その他・・城南町

2011-01-11 16:28:22 | 徒然

 妻が所用で城南町まで出かけるという。昨日はバスで行くとか言っていたが、「ひま?」と聞いてきた。どうも謎をかけられている。

 かっては益城郡城南町、現在は熊本市に合併している。この合併は政令指定都市に向けて有難い結果となった。片道35分ほどの距離だが、昔に比べると随分道路事情もよくなり、現在では合併の恩恵も受けて街中はあちこち改修工事なども盛んである。
中心部は「隈庄=くまのしょう」だが、その名の通り荘園があったのだろう。現在は支所になっている旧役場跡周辺が隈庄城があったところだとされる。
  http://www16.ocn.ne.jp/~sironoki/200fukuokaigai-no- shiro/210kumanosho/kumanosho0.htm

 妻を送り帰り道にちょっと寄ってみるが、本丸はどうやら公園になっているらしい。
ちょっと風もあるし躊躇してこちらは取りやめ・・・雰囲気だけを体験して引き上げる。

 城南町には、塚原古墳がある。九州高速道を作るときそのルートにぶち当たった。どうするかが議論され、この部分のみトンネルとする譲歩案が出された。古墳群は現在行き交う車の騒音の上に在る。
  http://matome.naver.jp/odai/2127726502919031101/2127735070120330103

 隈庄のお隣は阿高、うろ覚えだが貝塚が見つかったところだ。
    http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?type=A&id=191
又阿高は、細川家家臣・本庄氏の知行地で、現在でもご子孫がこの地にお住まいになっておられる。忠利公に殉死した本庄喜助のご子孫である。

 また隈庄には熊本の銘酒・美少年酒造があったが、数年前米騒動で倒産した。某ラーメンチェーンがバックアップして再建され、「美少年」の名前は残ったようだ。
    ja.wikipedia.org/wiki/火の国

 ちょっと出かけて城南町を復習したという感じ・・・

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有吉家文書「年中行事抜粋」から花畑館を考察する-(2)

2011-01-11 13:16:36 | 歴史

【御着座後初而召出之式】

  ■於竹御間同席中壱人完被召出・・・・・
   但竹御間と申ハ陽春御間之次之御間之事ニ而候得共・・・・
   此竹之御間之事ハ但書之通ニ候得とも陽春御間障子之腰ニ竹之絵有之候附、
   元来ハ陽春御間を竹之御間と唱居候と相見候處、陽春之御額懸候後竹之御間
   は御次之間之様ニ相成たると考候事
       これはもう解説することもなかろう。
       しかしながら、この部屋周りは数葉の間取り図を見た限りでも、まったく間取りの
       違うものが見受けられ、幾たびか模様替えが行われたことを伺わせている。

  ■・・・・鹿之御間と歌仙之御間之境御襖南之端一枚明キ居候、此所より左手之様ニ参
   鹿之御間北側入側と陽春御間次之御間との突当之八畳敷ニ御取次・・・・
   但・・・・鹿之御間北之方段落之御間へ下り・・・・
       「鹿之御間北側御入側」とは、絵図面をみると巾一間半ほどの中廊下が見受けら
       られ、これを「入側」としているようだ。
       (建築学的にはこれを入側と呼ぶには無理があるように思える)
       「鹿之御間北之方段落之御間」という記述からすると、逆に鹿之御間が一段上が
       っているのではないかと思われるが・・・如何

   ■・・・・但陽春御間御座之所ハ御建具無之御襖一枚北之方江建附ニ相成居・・・・
       この陽春之御間については、官職制度考によると披雲閣とも称して一室であった
       かの様な表現がみられ、実際その様な(陽春之御間のみ)絵図も存在している。
       しかしこの有吉文書では二つの御間が別々に存在する事ははっきりしている。
       二室が存在する絵図も数葉あり、この記述を理解するためには有吉文庫の史料 
       に該当する絵図がどれであるのかを特定する必要がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする