津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

無為介と父親・英記

2011-01-25 14:44:40 | 歴史

 「むいのすけ」と読むのであろうか、時代小説の主人公かと思わせる名前である。
実はこの人、郡代などを勤めた松村英記の嫡男である。「肥後先哲偉蹟」の松村大観(英記)の項に次のように記されている。

      松村英記江戸詰の節、嫡子菊壽に改名させんとて、下書を下し、名は無為助、
      實名昌言、判は拜と云字なり、兎角人は無為なるがよし、無為にして人の言を
      能聞べしとて、昌言と付、拜の字を判にすることは、禹拜昌言と云より出たり
      (以下略)

 確固たる心情が伺えて面白い。
ご子孫は佐伯にお住まいのようで、「別府大学地域連携プログラム-佐伯史談」に、松村昌勝という方の「参勤交代に於ける毛利藩と細川藩との誼(よしみ)」という論考が見受けられる。英記25歳の時参勤の御供を命ぜられ、佐賀関から御座船「波奈子丸」を先頭に、六十余隻の船団を組んで出発した。処が1隻の船が荒天のため南に五十里(200キロ)流され引返す途中で、佐伯の毛利藩にいろいろご配慮をいただいたと言うのである。英記が記した「船中日記」が翻刻されて紹介されているが、大変興味深いものである。

  http://bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/detail.php?id=ss17002    

 英記は長く郡代職を務め、又藩校時習館の改革案などを献策している。
無為介は如何であったかまだ知り得ないでいる。

 

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久我美子

2011-01-25 11:46:08 | 徒然

 女優・久我美子(くがよしこ)は、清華公家・久我(こが)侯爵家のれっきとしたご息女である。本名も美子、ただし「はるこ」と読んだらしい。財政が破綻した久我家の為に女優になったとされるが、「こが」の名乗りを許されずに「くが」としたと伝えられている。

 前内大臣久我通明卿の御廉中も美子、この方は細川治年の息女・就(ナル、ナリ)姫である。こちらはなんとお呼びしたのか良くわからない。女優久我美子の名前も案外就姫さまから来ているのかもしれない。

 久我家は細川家とは大変つながりが深い。
            http://www1.parkcity.ne.jp/sito/k104.html

そのさきがけは、綱利女・具姫(初・鍋、常)が右大臣・久我惟通に嫁いだことによる。
実は綱利弟利重の息女であるが、綱利が養女とした。
惟通の孫通兄女・由婦姫が細川重賢の室となっている。就姫は重賢の孫娘である。

 八代古文書の会が発行した「熊本藩家老・八代の殿様 松井章之の江戸旅行日記」によると、天保十二年の参府のおり伏見(今出川)の久我家を訪れている。このとき就姫は「久々御不例」で「漸ク昨日迄ニ御櫛御ほとき仕舞被候得共、未タ御平常通り御仕舞不被出来候」状態で表向には出られず、のち御居間で久しぶりの対面を果たし「太守様え御伝言等」をお聞きし退出している。その際の部屋の間取りや出入りの状況などが記されていて大変貴重な記録とも言える。大変こまめな殿様であったことが伺える。このとき就姫様は54歳である。弘化四年四月61歳で亡くなられた。
「東路日記」「桂能里乃紀行」「散九良木集」などの優れた紀行文、歌集などが残されている。

        
コメント (2)
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