一月ほど前、アメリカからメールをいただいたのが発端で小崎氏について調べ始めた。小崎氏は三家が明治に至っている。先祖附を取り寄せて読み下しを進めると、三家の記述に齟齬が見受けられ解明に苦労した。小崎家は幽齋公の田邊籠城の際、忠興公が中津海五郎右衛門を密使として田邊に送ったが12,000という軍勢に取り囲まれている城に入ることが出来ずにいた。その時頼ったのが大野宰相秀雄卿(常真織田信雄の御嫡子、参議従三位)の家臣・小崎図書である。あいにく図書は京都に在ったので、嫡子兵次郎が弄走して無事五郎右衛門を城内に入れるのに成功した。以下は兵次郎への感状である。
尚々懸御目候ハヽ今度之御礼可申、以上
東より我等者上へ遣申候処 小図ハ上ニ御入候
ゆへ 無十方処ニ 色々様々御きもいりの由
其者罷帰候 満足中々存ほとは御礼不得申候
懸御目候而 可申述候 あまりに其後無音申候
間 先一書申候 恐(々脱)謹言
十月六日 は越中 判
小兵二殿
御中
その後兵次郎は病気になったらしく、忠興は懇ろな見舞い状を父・図書に遣わしている。(綿考輯録・藤孝公p220)
小崎兵次郎は忠興の豊前入国後召し寄せられているが、「兄弟はいないか」との仰せがあり、弟喜平次が共に召しだされた。
+--彦次郎・・・・・・・・・幽齋から太鼓の相伝を受け、禁裏における能興行などに其の名前が見える
| http://www.kyuko.asia/book/b10386.html
| http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/kyouikuiinnkai/bunka/83_ookaw.htm
甚右衛門 |
図書---+--兵次郎-------岡部道宇---庄之助---又兵衛(絶家)
又兵衛 | 長豊
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+--喜平次---+--次郎左衛門---+---甚右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・眞右衛門家
太郎左衛門長正 | |
| +---太郎左衛門・・・・・・・・・・・・・・・・太郎左衛門(弘道)家
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+--孫右衛門----------傳右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・杢之助家
杢之助家の先祖附によると、図書の嫡男・兵次郎、次男・喜平次とするが、彦次郎という人物が嫡男であったようだ。太鼓(おおかわと読むらしい)の名手として禁裏で行われた能興行の番附に其の名前を残している。遡ると家祖は岡部次郎左衛門であり忠次郎→甚右衛門(図書)と続いていく。
今川義元--武田信玄・勝頼--織田信長・信雄に仕えて乱世の世を渡っている。織田信雄代小崎の姓を頂戴したとされる。
太郎左衛門家の弘道氏は東京霊南坂教会を作った方で、「伝記・小崎弘道」において弘道氏は小崎の姓は細川時代とされるがこのあたりにも齟齬がみえる。又其の先祖を藤原鎌足の末裔・岡部六彌太だと記されている。先祖附では見受けられないところだが、今後の課題である。宇城市中村に先祖累代のお墓が在り、岡部氏のものも存在するいう。