津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

赤穂民報

2011-12-14 20:14:54 | 徒然

 赤穂民報の独占取材の記事らしい。築地本願寺が収蔵する赤穂義士・間新七の槍が一部関係者に公開された。

http://www.ako-minpo.jp/news/5889.html

このことをお知らせいただいたのは、北海道室蘭在住の畏友・近藤健氏、あの「コーヒーブレイクエッセイ」でおなじみの、サラリーマンエッセイストである。今まで非公開とされてきた「間新七の槍」なのだが、近藤氏が大学時代の親友であるニューヨーク在住の僧侶・中垣顕實氏に頼み込みこれが実現したという奇跡的出来事である。
近藤氏は又、赤穂義士・堀部弥兵衛を解釈した米良市右衛門のご子孫でもある。赤穂義士研究家の佐藤誠氏と親しくされているが、「何とか見る手立てはないものか」というつぶやきが発端となってのことであるというから、まさに素晴らしい人つながりでの実現となった。

中垣顕實氏については近藤氏の次のようなエッセイがある。http://www.kitanihon-oil.co.jp/pc/essay/ny_bo-zu.htm
中垣顕實氏には次のような著作もある。http://www.cocosachi.jp/events/2010/06/post-48.html

今日はNHK「歴史秘話ヒストリア 巻き込まれた人たち-三つの裏忠臣蔵」がある。佐藤誠氏が歴史検証にあたられている。
あと二時間ほどである。

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各々方討ち入りで御座る

2011-12-14 13:53:17 | 歴史

                                

                                       ウイキペディアより

 今日は赤穂義士の吉良邸討ち入りの日である。本当は15日午前4時ころだとされる。(14日とするのは日の出から翌日の日の出までを一日とする習慣による)無事討ち入りをとげた義士たちは四大名家にお預けとなる。細川家は17名の義士を預かることとなるが、その生害まで世話役を務めたのが堀内傳右衛門である。彼が記した覺書などが、義士研究に大きな役割を果たしている。
以下の如く国会図書館の近代デジタルアーカイブスで見ることができる。

                   堀内傳右衛門覺書  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766735/148
                   御預人記録一巻    http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766735/174

細川家は三宅藤兵衛以下家士36名、足軽100人余、駕籠17丁、予備駕籠5丁などで物々しく向かえたと記されている。
藩主綱利は夜半の事とはいえこれを向かえ、大石以下の者に直接懇ろに声をかけたという。
豪放な気質の綱利はその取り使いにも気を使っている。江戸っ子たちは「細川の 水の(水野和泉守)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」と、細川家と水野家の取り扱い振りを賞賛している。

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