津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

オークション「家老・沢村宇右衛門宛」

2011-12-11 23:28:23 | 史料

 毎度の事ながら、落札しようとは思いませんが、興味深いものですね~。ただいま1,000円、あと6日です。

                   江戸前期 『 寺社奉行 小笠原長矩 書簡 (2) 』 肥後国 細川家_画像1 

 

                                 江戸前期 『 寺社奉行 小笠原長矩 書簡 (2) 』 肉筆 古文書

                       三河国吉田藩二代藩主 小笠原山城守長矩が熊本藩家老 沢村宇右衛門へ宛てた書簡です。  
                       小笠原家と細川家には姻戚関係があり、二代藩主 細川光尚の母は小笠原長矩の祖父 小笠
                       原秀政の娘であり、  また、姻戚のよしみといい、領国も境を交えている叔父の小笠原右近将
                       監忠真は、幼少の細川綱利のために国政の相談役を酒井忠勝に命じられたようです。  
                       書簡の内容からも、両家の付き合いがうかがえます。 署名は初名の忠根(ただもと)です。 


                       ○ 小笠原長矩 1624~  奏者番、寺社奉行。従五位下、山城守。
                         三河国吉田藩二代藩主。  母は多賀光定の娘、室は菅沼織部正定芳の娘。

                       ○ 沢村宇右衛門友好 1604~1667
                              熊本藩家老、1万4千3百石。筆頭家老 松井康之の甥。 はじめ松井庄次郎、右近ついで宇

                         右衛門と改める。 細川忠利の児小姓に召出され五百石。寛永十年 沢村大学吉重の養子と
                         なる。五百石加増、島原陣の功により千石加増、寛永十七年若年寄となり、二千三百石加増、 
                         都合四千三百石、のち一万四千三百石老中職、寛文五年六月辞任。同七年十月七日歿。
                         諡晴機院。

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中村汀女と大名塘

2011-12-11 08:51:27 | 熊本

 先に熊本県立図書館(旧・細川内膳家下屋敷跡)にある芭蕉林の中に、高濱虚子の句碑があることを書いた。その句碑の落成式の時、虚子の次女の星野立子が出席している。この場所から江津湖を挟んだ対岸のやや下流の所に、中村汀女の生家がある。汀女はこの江津湖周辺をモチーフにして幾多の俳句を作っている。
外(と)にも出よ触るるばかりに春の月などという名句も、発想の原点はここにあると私は思っている。

汀女・星野立子・橋本多佳子・三橋鷹女をして四Tと称するのだそうだが、星野立子は「江津湖のこと、あなたはしぼればしぼるほど書くことがあるのね」といったとされる。ちなみに「汀」という字は「みぎわ」と読み「水際」を意味する。江津湖の清らかな水際で、汀女の豊かな感性は育まれた。

http://www.google.co.jp/search?q=%E6%B1%9F%E6%B4%A5%E6%B9%96&hl=ja&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=TO7jTp63CPGtiQetlJi2BQ&ved=0CFoQsAQ&biw=1280&bih=929

 最近はご多分に漏れず水質が悪くなったこの江津湖も、かっては阿蘇の伏流水が湧き出る水清らかな湖沼であった。瓢箪のようにくびれた湖沼は上江津湖・下江津湖とわかれ、くびれの部分に「齋藤橋」という橋が掛けられている。中村汀女の旧姓は齋藤(破魔子)であるが、其の実家はこの土地の名家であり齋藤家によってこの橋が掛けられたため、「齋藤橋」と名づけられている。かっては木橋であったが私の少年時代、釣りや水遊び等の格好の遊び場だった。狭かった道も今では「東バイパス」と呼ばれる熊本市の大動脈が通り抜け、橋も立派なコンクリート橋となった。その橋銘の由来を知る人もそう多くはないだろう。

 この橋から下流側の堤を「大名塘」と云ったそうだ。加藤清正の時代洪水の常襲地帯であったこの地帯の庄屋が、堤を作ってくれるよう願い出た。1,000石以上の侍の奉仕に依り立派な堤が出来「大名塘」と名つけられた。完成に当りその庄屋が人柱とされたと伝えられる。私の全くの憶測だが、その庄屋とは齋藤氏ではないのかと思うのだが・・・・・

 

コメント (3)
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