細川幽齋の養父については、実父とされる三淵晴員の実兄・細川元常とする今までの説が昨今大いに揺らぎ始めている。
これはいみじくも、幕府からの問い合わせに対する忠興の言に基づいているから皮肉なものである。
一方忠興の養父であったとされる細川輝経成る人物についても良くわからない。
綿考輯録において編者小野武次郎は、「将軍の命にて細川中務大輔陸奥守輝経主御養子の約有之を以、後迄も大外様と称せらる、然れ共直ニ藤孝君の御許に御座候而、与一郎忠興と御名乗被成宋労、忠の字は織田信忠卿より進せられ宋労となり」と解説する。そして「一書、細川輝経の養子として家督を継、大外様の役也、輝経窂浪の後、本家に帰住して与一郎と唱し、藤孝君の家督となり給ふと云々、又一書、義輝公の仰にて、輝経主の継嗣にならせ給ふ(中略)、又一書、輝経主は永禄八年義輝公御生涯の時、御一同ニ討死と記し、或は天正元年、義輝公信長公と矛盾の時、公方家御家人数の内に輝経主も有、此時御討死とも窂浪とも分り不申・・・・」記す。
ところが、ウイキペディアに於いては次のような説明がなされている。
奥州家→ 肥後細川家 |
細川 輝経(ほそかわ てるつね)は戦国時代・安土桃山時代の武将。細川氏の一族で細川奥州家当主。細川晴経の子。官位は陸奥守。妻は松井正之の娘(松井康之の姉)。細川奥州家は南北朝時代に宗家足利尊氏とともに活躍した細川顕氏の子孫である。戦国時代当主は将軍家13代将軍足利義輝から偏諱を賜り、輝経と名乗る。細川藤孝の長男忠興を養子とし、藤孝や一色藤長らと共に将軍家の近習として仕えた。義輝の弟の義昭にも仕え、義昭が織田信長に追放された後も他の幕臣と共に義昭に従い、備後鞆の浦に下向した。その後、養子である忠興の重臣で、輝経の義弟であった松井康之の元に客将として招かれる。関ヶ原の戦いの前には大坂細川邸にて忠興の妻玉子を守る。丹後久美浜城の守将を務めたが、戦後西軍に内通したとして切腹させられた。
幽齋公の田邊城籠城の際、敵に内通したことが露見し、息・松井久左衛門昭経とともに逃げのち自殺したと伝えられているが、小野武次郎はこれに触れていないのは何故なのか、これにも首を傾げざるを得ない。