この人物については現況特定できないでいる。
熊本市の隣町・菊陽町は、熊本市のベッドタウンとして又多くの大企業が立地し、国道57号線が貫通して郊外型商業施設が集積し発展している。
一方鉄炮小路などという歴史を感じさせる由緒ある集落が存在するなど、古いもの新しいものが混在する魅力的な町である。
何度かご紹介したが、この鉄炮小路は江戸期掃除方に属したいわゆる「地筒」が住まいした所である。
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官職制度考は次のように「新地鉄炮者」を紹介するが、鉄炮小路に該当するのは合志郡大津一ヵ所がそれであろうと思われる。
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掃除頭の支配
新地鉄炮者 236人 公襲封の始置之
此組合志郡大津一ヵ所 ○飽田郡平山村 花立 黒石 楡木 麻生田 兎谷 ○飽託郡保田窪 皆農兵之類古に所謂野武士と云者此類なるべし
右の所々に住居して常に鉄炮を稽古し平日掃除頭の指揮を受城中又は公館庭中庭外の酒掃道造の事をつとむ 定れる歳俸月俸なく渡り地と唱て山林空原の地を開き取て高貮拾石を定とす 一人二町三町又五六町をも自ら耕して給す 平日一刀を帯す事に臨て■刀を帯其外武芸得手に任す 惣代・小頭一人宛
地筒
大津、平山、麻生田、黒石、花立、兎谷、楡木、保田久保
右仕立之儀は寛永十三年 妙解院(忠利公)御鷹野に御出之節上林甚助へ御意之頃菊池往還を西之境にして合志郡鳥巣村より弁天山目當に立田杉馬場限東之境にして立田山神子松を南之境に極此内に地筒百二十人御仕立鉄炮之者所々より被召抱候事
一給米之儀は御免地一人前野高二十石勤方は一ヶ月五日二人扶持之営を以五斗宛月々被渡下候 御奉公之儀は外様足軽同様相勤可申旨被仰付、小頭は野高
四十石被下置候
一島原御出馬の節は被召連御本陣御葉串之御番相働二月廿七日総責之節澤村宇右衛門殿手に付申候 三月二日御帰陣之節罷帰申候
一保田久保之儀は阿部彌一右衛門殿承に面寛永十二年より追々仕立に相成宋労事
一大津原地右同年御仕立百人頭吉谷平太夫