津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■田中家の汚点(一)

2017-06-01 08:27:01 | 歴史

 島原の乱の実質的一番乗りは田中左兵衛である。幕府側は益田彌一右衛門を一番乗りと認定したため、細川家は田中左兵衛に対して手厚い対応をした。益田に対しては「千石加増御鉄炮廿挺頭」であったが、田中に対しては「島原陣後加増五百石、同十八年加増五百石、小姓頭 正保元年加増千石 都合二千百五十石、肥後藩初の城代職 後加増二千石、都合四千五百石」という手厚いものであった。
左兵衛の父は柳川城主・田中吉政の弟吉次である。
田中家の先祖附を見ると曾孫(4代)の左兵衛氏昭が、元文ニ年曹洞宗禅定寺に対し離檀申入れ、寺側が拒否し、事は幕府の裁可を仰ぐ事となりこれも不可となり、その結果蟄居処分となった。
5代左兵衛氏常は養子(実・小笠原備前長知二男)であるが、この人物が明和七年知行召上られ蟄居させられている。
何があったのか判らずにいたら、今般図書館で取得した「上妻文庫・肥後風刺文学ニ」に其の理由に触れた記述があった。
初代左兵衛の活躍で得た家禄4,000石は氏常の跡を継いだ典儀に、「明和七年十二月先祖の訳に対し旧知二千石拝領」と2,000石の減知となった。事件の当事者左兵衛は「明和九年十二月 田中典儀父田中左兵衛(蟄居被仰付置候)在宅願」ということになった。

さてその事件の顛末である。その真実は左兵衛殿の不義という不名誉なことであった。
   明和七年十二月廿ニ日於御奉行所にて御備頭田中左兵衛殿
   被掴呼被仰渡有之節左兵衛殿病気故有吉市左衛門殿名
   代ニ被罷出候時助右衛門殿被仰渡左之通

        申渡     田中左兵衛
   右左兵衛儀お津よ殿召仕之女之内へ不義の文通致し候
   様及露顕達
   尊聴重キ御役被 仰付候処不所存之至候 殊更所柄を
   茂不弁不届ニ被思召上候 知行被召上蟄居被 仰付
   旨被仰出候
               田中典儀
   親左兵衛不行跡之次第達 
   尊聴御知行被 召上蟄居被 仰付候 然共被對先祖舊
   知二千石被下置朽木内匠組之大組付被 仰付旨被
   仰出候

名門田中家の縁類は実方の小笠原家は言うに及ばず、細川内膳家・三渕家・木村家・大木家・堀家・溝口家・坂崎家・奥村家・落合家に枝葉を広げているが、これ等の当主が差扣の処分を受けている。
「不義」という俗っぽい事件だが当時の高級武士の世界を震撼させる事件だったようだ。

6/1加筆
さて左兵衛殿のお相手についてである。左兵衛の奥方・御徒よ様召仕之女である。 

   御徒よ様召仕之女は御穿鑿所役人林七郎左衛門女おなミと申し年ハ二十ニ三と見へ申候伊達もの也 然共三十才ニ近きよしなり 
   今ハ親の家の隅に病中分にて引籠申し候よし

 この事件の詳細や当事者である「おなミ」に対する処分また林家に対する処分など不肖である。
「不義の文通」とあったが、左兵衛の恋文を届ける人物が存在した。この人物は大変な目にあっている。まことにご愁傷なことではある。

   御醫師小山意齊其節文の取次なと仕よしにて御蔵前百八十石被下置候を八十石被召上御徒よ様御付被差除遠慮被仰付候

 

 

コメント
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