正徳四年五月廿ニ日の事だそうだが、この重大事について熊本藩年表稿には記載されていない。
以前から随分気になっていたのだが、今日図書館に出かけた際「盤桓随筆・十」から該当項を発見した。
千石取三人を含め高名なる人たちがなぜまとめて「御暇」となったのか、この項でも定かではない。
真実に迫るには中々難儀である。
千石 竹内吉兵衛 千石 田邊平助
三百石 西沢文右衛門 三百石 臼杵杢之助
千石 国友源兒右衛門 百石 藤掛梶右衛門
三百石 芦田友之允 八百五十石 竹内七郎右衛門
弐百石 江村左七郎 百六拾石余 脇坂伊左衛門
右者正徳四年五月廿ニ日御暇右之内西沢文右衛門伜
西沢文太郎儀ニ享保三年二月七日五人扶持被為
拝領竹内七郎右衛門跡ハ右同日三人扶持被為脇
坂伊左衛門嫡子脇坂関右衛門儀者享保十年四月十一日
高瀬三蔵物書被召出候也
本行之通大勢一同之御暇如何之訳ニ而候哉永央安田市助ニ
咄之席ニ聞合申候処名前相分申候ハヽ書付見せ候様被申
候付■候処付紙ニて被申越■左之通
此面々御奉行所御暇帳に記有之候
思召ニ不為叶なとし有之候ヘハ事柄被分兼申候
西沢跡者御切米取之家来有之代々相續ニ而正月十一日
御鏡餅頂戴仕候
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