
鎌田軍兵衛は「鎌田泰家」の5代目で御鉄炮廿挺頭(千石)である。
先祖は團平八郎、美濃国岩村城主(肥後先哲遺蹟では大垣城主としているが?)で織田信長に仕え明智光秀謀反の折に御供にて討死した。嫡子・市兵衛は福島正則に仕え番頭、市兵衛嫡子・五右衛門は福島正則落去に際し浪人、初代源大夫は五右衛門の三人兄弟の次男である。兄弟三人が豊前で忠利公に召出された。(300石)
初代源大夫については面白い逸話がある。
忠利君御代、御庭に蘭植させ被成御好被成候て、蘭のこやしにハ月代の毛を蘭の根に置たるか吉と御聞被成、
御側ニ被居ける衆中へ右之御物語被成、銘々月代剃候ハ其毛を集置候へとそ被仰付ける、何も奉畏けるに、其
中に鎌田何某とかや申ける御児小姓十三歳成けるか、申上けるハ、私儀ハ御断申上候、何そや士の頭毛をこや
しに仕候儀ハ何様ニ御座候ても成申間敷とそ申上る、忠利君被聞召、成程其方云分尤也、予あやまりたりと被仰
けるとそ、此御児小姓成長之後鎌田源大夫と申ける由 綿考輯録巻五十三(忠利公・下p438)
さて指物にある家紋は「釘抜に梃子」、「三幅のふきん」に染められているが「ふきん」とは「布でつくった巾」と解すべきだろう。