先に■高麗門護札ノ事 ■熊本市政便りから を書いてから、熊本城の多くの「城門」がいつ解体されたのかに関心を持っていろいろ調べている。
熊本藩知事が「熊本城廃隳」の願いを政府に提出したのは、明治三年庚午九月五日付である。この文書には付札があり「聞届候事」とあるが、これとて何時聞き届けられたのか判然としない。
「明治維新廃城一覧」によると、この年(三年)「数寄屋丸櫓門の焔硝の爆発により同櫓門等焼失」した。
明治四年七月に廃藩置県が実施されると、八月二十日の達しで四鎮台と八分営が置かれ、熊本には鎮西鎮台が置かれた。城郭は兵部省の管轄となったが、この時期に西出丸の櫓や門が取り壊されたという。
明治五年三月、鎮西鎮台司令官に桐野利秋が任命され赴任している。富田紘一氏の著「古写真にみる熊本城と城下町」で氏は、赤星典太氏が「桐野利秋が跡の魂胆もあって高麗門を壊した」(一部略・津々堂)と回想していることを紹介している。
前にも記したが「高麗門」や「新三丁目御門」が写る城下町の写真に、完成したばかりのジェーンズ邸が写っていることから、高麗門の解体はそれ以降であり、赤星氏の言が本当であれば明治五年三月以降となる。
熊本城廃隳を検索した竹崎茶堂は「御城御天守取崩し、外廻り之門塀丈を残し可申事」という考えであったことが、高木亮(曲水)の著「竹崎茶堂先生」に書かれている。
又、天守などの解体については反対する意見がいろいろ取りざたされているが、藩知事細川護久の「弟の護美がそれには及ぶまいと宥めた」とする徳富蘆花著の「竹崎順子」にある説が有力である。
明治初期の混乱期であるとはいえ、まことに資料が少なく驚くばかりである。
追記:このブログをご覧になってお昼前にご厚誼頂いている肥後金春流中村家のご当主からご連絡いただいた。
吉村豊雄氏著「熊本藩郡代中村恕斎日録抄・幕末武家の時代相」下巻に「熊本城解体」という項が立てられているとのことであった。
ご存知のようにこの著の底本ともいうべき「肥後中村恕斎日録」は二巻が発行されているが、その日記が膨大であるため残念ながら私どもはその全体を
知ることができない。12巻に及ぼうという話を聞いたことがある。
吉村先生はそのすべてを読破されたうえで、上記著に「熊本城解体」を記された。
巷間私たちが承知している一二の情報は、竹崎家にまつわる徳富蘆花や高木亮(曲水)の著によってである。
これが真実であるのかさえよくわからない。
十月十日、恕斎の元に十監(監察官・目付)宗村弥太郎が訪ねた際「この方様御城御廃堕のお願いは、当時禁庭の趣により、已むべか
らざる勢いにより候手の御事なり」と語ったとされる。
「熊本城廃隳」の願いが出されたのは九月五日であり、宗村が語る「禁庭の趣」を受けての事であろう。
吉村先生は「熊本藩のごとき大藩が自ら居城を解体するのは甚大で、藩政改革を加速させ廃藩議論に現実味を与える。」と解説する。
宗村は「朝廷の御趣もけしからず御宜しく在らせ候由也」と語る。
藩政府は十月四日藩内に熊本城解体の方針を通達、翌十五日から解体にとりかかる予定でいたが、思いがけなく頓挫することになる。
前藩主(知事)韶邦の反対である。韶邦の意向も問わず新知事・護久サイドで進められた計画は凍結に至った。時間稼ぎをしようという訳である。
恕斎は「御様子これ有り、暫く御畳置き仰せ付けられ候由」と記す。
弟・護美の「それ(解体)には及ぶまいと宥めた」という言葉がうなずける。
そして前代未聞の「御天守拝見」につながるのである。閏十月十日から大賑わいとなりその様子は五保栄八の日記などで知られるところである。
追記以前の文章はそのままにしておくが、辻褄が合わないところが多々ある。「恕斎日録」が語る処が真実であろう。