今度の史談会においては、津田平八の「御奉公附」を取り上げることになった。
この津田平八成る人物がどういう人なのかを知っておく必要があるので、少々まとめてみた。
細川家家臣には五家の津田氏が居られるが、すべてが織田一族である。
津田平八のご先祖様は、織田信長の弟・信包(のぶかね)であり、丹波柏原藩藩主であった。
嫡子信重は父とは別禄で伊勢林一万石の藩主となったが、信包の死後その遺領を弟・信則と争い敗訴して所領をも没収された。
信重室は管領家斯波義銀(のち津川義近)女である。義銀の二男・辰珍は細川家(豊前・忠利代)に1,000石をもって客分ととなった。
肥後入国時加増されて1,250石になっている。
織田信重の子・三十郎(次郎左衛門長相)も細川家家臣となり300石、津田平八はその六代の孫にあたり、番頭・小姓頭・用人などを勤めた。
津川辰珍には男子がなく、長兄・近利の子を継嗣としているが、辰珍は不思議な行動を起こしている。
寛永十七年、自分の知行の内700石を妹の子・津田三十郎に分け与え1,000石とさせ、津川の継嗣・長房には750石を継がせている。
その後細川家は津川長房に対して加増を行い都合1,500石の家格となった。かっての管領家であったことを遇してのことであろう。
それにしても少々首をかしげざるを得ない話ではある。