先に■お教えを乞うで「嫁齊明天皇産三王子其中子志弩直長於丹波國賜大蔵姓」(斉明天皇嫁して三王子を産す其の中の子志弩直、長ずるに於いて丹波國を賜り大蔵姓)という一文をご紹介した。
どうも眉唾とも思いながらこの文章の出所を探って、今日は少々無理をして図書館に出かけた。
原田氏のご子孫であろうと思われる方が、この様な著書を上梓されていた。
これによると、上記の一文は貝原益軒著の「筑前國續風土記」所収の「原田記」にあったものとされる。
まさしく斉明天皇の王子であると記されている。
原田氏は唐土後漢の獻帝の遠孫也。獻帝の建安廿四年、魏文帝に位をうばはれ、獻帝の四子共に諸
侯に列す。中にも第一の王子昌武王は、文武の才ありといへとも、魏帝即位の後、恢復の功成難く、
南漢國の覇王となれり。其子顯章王より十三世、阿多倍王の時、天下唐の代となれり。唐の太宗即
位の後、貞観年中南漢國の王位を辭し、日本國 孝徳天皇の御宇、大化年中十二月晦日、播磨國大
蔵谷と云所に着岸せらる。阿多倍王漢王の嫡孫なれ共、代末に成て、我國を頼て歸化せられしかは、
日本の貴客とて難波の都にうつされ、大臣の位に任し、高貴王と稱せらる。時に先帝皇極女帝、位
をすへりてましまししかは、則高貴王に嫁しおはしまし、三王子を産たまふ。第一王子拏直王是坂
上連祖、第二王子貴重王大蔵朝臣の祖、第三王子基淳王内蔵連祖也。白雉五年十月十日、孝徳天皇
崩御し玉ひしかは、御姉 皇極天皇重祚をふみ給ふ。後に 齊明天皇と號す。第二王子貴重王、女
帝の御愛子にて、親王の宣旨を蒙り、阿多倍王に属し来る。民族倍臣背中子に附與せられしかは、
高貴王の本家は大蔵姓に相傳せり。朱雀院天慶年中、藤原純友叛逆しけれは、追討使として小野好
古朝臣を指下され、博多の津にて純友と合戦せしか共、其功なかりしかは、天慶三年五月三日に、
高貴王より十二代の後胤大蔵春實を對馬守に任して、錦御旗軍旗の蒲團扇を賜り、筑紫に指下し玉
ひ、對馬を管領し、名を春種と改め、筑前國御笠郡原田に居住す。是故に原田の號あり。是則原田、
秋月、波多江、江上、原、高橋、三原等の元祖なり。
これでもまだ食い違いがあるが、斉明天皇の王子であることは益軒の述べている通りであり、益軒が何を元にした記述したのかが問題である。
それでも「嫁齊明天皇産三王子其中子志弩直長於丹波國賜大蔵姓」と記述したO氏は、この情報をどこから手に入れたのだろうか。
考えられるのは藩校時習館か?、大変努力をされて書残されたものではある。