津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■犬の話

2018-02-27 19:05:04 | 書籍・読書

 

犬たちの明治維新 ポチの誕生/仁科邦男ここ数日仁科邦男著「犬たちの明治維新・ポチの誕生」を読んでいる。
O家の膨大な古文書解読も一段落して、ちょっと軽いものをと思って楽しんでいる。
小さいころ祖母につれられて某家を訪ねた際、そこにやけに吠える子犬がいた。今思うと「狆」ではないかと思うが記憶が定かではない。
そして帰り道で祖母が「あれはカメだよ」という。「カメじゃないよ、犬だよ」というと、「洋ものの犬はカメという」という。
へ~と納得して60数年、この本を読んで謎が解けた。祖母の話は嘘ではなかった。

外国人が犬を連れて入国し巷に犬人口が急激に増えたらしい。万延元年の「武州横浜名所図」には辮髪の人の横に犬が描かれていて、「外国戌名ヲ加め」と書き込んでいる。
そして「カメ」の語源を外人さんの「おいで/\=COME IN」からきていると説明している。カムインが日本人には「カメ」と聞こえたというわけである。このカメは日清戦争が始まるころまで「犬」にルビされたという。祖母の生きた時代のことであり間違いではなかった。

また「ポチ」の語源やら、西郷隆盛の犬の事やら、「狆」はなぜ「ちん」と読むか等大いに「萌える」著であった。

そんなことを楽しみながら読んだことであったが、その後熊本藩町政史料(三)を眺めていたら、文政12年6月朔日の事として次のような記事があった。いささか趣は違うが、偶然発見した「犬」に関するものでありご紹介しておこう。

   御家中飼犬を間ニハ町家に預候者有之、夫よりして内輪種々申分も差起候哉ニ相聞候、
   程ニ寄其分ニ難被閣筋も成行候てハ難相濟事ニ付、以来町家に御家中飼犬を預申間敷
   候、たとひ無余儀訳を以預方談有之候とも堅相断候様、此段町中一統可及達旨ニ付小
   前々々ニ至迄不洩様夫々申聞置候様可有通達候、以上
      六月朔日         町方根取中
        市原永一郎殿

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■目白邸について・

2018-02-27 12:11:33 | ご挨拶

松平駿河守上地拝領・目白邸のつづきである。
弘化4年1月24日細川藩白金邸は類焼し、齊樹公の未亡人・蓮性院は2月14日に目白屋敷に移られている。
私は単純に随分以前から「細川家目白邸」なるものが存在し、隣地(?)でもあろうか松平駿河守上地屋敷を拝領したと考えていた。
どうもそうではないらしい・・・
熊本史談会の会員でもあった藤本修氏の研究の成果「藩邸沿革ー自家判・全195頁」を拝見すると、目白の地には蓮性院の御実家・一橋家の下屋敷があった。
一橋民部卿(将軍家斉実父)の下屋敷と紹介されている9,275坪である。

そのうちの一部を蓮性院の夫君・齊樹公の養嗣子齊護公の嫡子慶前君が弘化3年に譲り受けている。
火事の数か月前であり、齊護は先代夫人をかっての実家一橋家の下屋敷を避難場所としたのである。

細川家が松平駿河守の上地を拝領するのは8月22日である。藩邸沿革においても「於御白書院縁側老中列座」の中で申し下されている事が確認できる。
細川家が取得を申し出ての事であろうことは想像に難くない。
この土地を含めて「目白屋敷」とするためだが、どうも場所を特定するのが難しい。
そしてこの土地は、安政三年の「諸向地面取調書」では慶前夫人・鳳臺院の所有する処となっている。夫君・慶前公が死去したためである。
鳳臺院は天保元年四月細川新田藩主利用の子として生まれ、弘化二年十一月に結婚した(16歳)結婚生活は長く続かず嘉永元年四月慶前が死去する。この時期大名屋敷の売買が個人に対して行われているのが興味深い。






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■松平駿河守上地拝領・・目白邸

2018-02-27 07:41:29 | 歴史

 旧細川藩目白屋敷は、現在の永青文庫和敬塾肥後細川庭園(旧・新江戸川公園)などを含む広大な広さをほこっていたが、その一部分(旧・松平駿河守邸)は弘化二年(1845)に拝領されている。
この年の1月24日細川藩白金邸は類焼し、齊樹公の未亡人・蓮性院は2月14日に目白屋敷に移られている。
齊護卿遺事を読むと次の様にある。

   弘化二年の春、江戸青山より火出て延焼に及び、白金邸第も焦土となりぬ、大夫人には
   先づ假に目白臺なる新邸に移らせ給ひ、白金邸館を造らせ給ふほど、君いたく御心を
   盡させ給へり、いかで速につくり出してよ、大夫人には、ことに雷をきらはせ給へるに、
   目白館はかりそめなる所にて、御心もやすからじと思召せば、かねては倹約をむねと
   守らせ給へども、此度の事は、資用を増してだに、早く作り出してよと、おきてし給へり
   しほどに、初め工匠等が積り申しゝは、秋も半に至らずば落成せじといひしに、思ひの
   外速に成就しぬるは、ひとへに君の御眞實によれるなりとぞ申あへりける、君の萬に
   御心もちひたまへる御有様を、一橋家の御内にて、年老いたる女房達伺ひ奉りて申し
   しには、あはれ蓮性院君には、いみじき御果報こそおはしましけれけれ、守殿のかほどまで
   御奉行ならむには、實の母子も及ばじ、やむごとなきかたがたは、うはべの親しみこそ
   あれ、かたみに打とけさせたがたかめるを、此殿の御中らひには、さる御有様つゆほども
   見えさぬ給はぬなりと感じあへりきとなん

この火事により緊急避難的にこの屋敷に入られたようだが、蓮性院は6月6日新築なったのか、白金邸に帰られた。
その後以下の如く松平駿河守御上地を拝領しているが、これが広大な細川家目白邸のどの部分にあたるのだろうか。

  「太守様先月(八月)廿ニ日依召御登城被遊候処、目白台松平駿河守様御上地千七百八拾弐坪餘 
   被遊御拝領候段御到来有奉恐悦候・・・」


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