津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■寛永年以降・郡中法令(18ー了)

2018-02-22 13:15:03 | ご挨拶

 二四八
  此書付明暦三年七月十八日式部殿・頼母殿・助右衛門
  殿・勘解由殿・式部殿二て御寄合之時相極候也
   覺
   「家主と河尻のあやと借家受ニ立、たゝさる所町奉行手前ニ
    て聞届、町之作法のことく可申付由、御老中被仰付候也」
一嶋原え走り参候を被召戻候京町市郎右衛門儀、別當之謀
 判を仕、川口を罷出申候、彼者手前御穿鑿御奉行加被仰
 付候哉、得御意候事
   「元来百姓地ならばもとへ戻し、それより望の者年貢を出
    しかり候ハヽ心次第、家道具ナトハ上り申ニて可有之候、町奉
    行共相計可然様ニ可申付候由、御老中被仰候也」
一此度辻切ニ逢申候法華坊主妙乗寺屋敷惣て地子屋敷ニて
 御座候、住持無御座候ニ付、五人組ニ申渡番等仕せ候、
 彼寺を預り申候五人組迷惑かり申候、然ハ顯應院・久
 本寺・中正院此三ケ寺より時分之屋敷せはく御座候又隠
 居所ニ仕度候間、妙乗寺を被為拝領候様申上呉候へと、
 私共迄書を出し申候、此三ケ寺も法華寺ニて御座候、地
 子ニて御渡置加被成候哉、得御意申候、屋敷之間數、軒
 數帳ニ仕置、寺内之道具迚も無御座候、朝夕をも續兼申
 たる寺ニて御座候由承候事
    「町ニ召置、町奉行共計ニ三年程宛あれこれニ渡置
     様ニ他しか成者ニ預置ニて可然旨、御老中被仰付候也」
一年々御町々集り候て有之銀子只今拾五貫目餘御座候、今
 迄ハ一年ニ八歩之利足ニ定、其町々ニて預り嘉申と申
 者ニ渡し置申候、いつまても一人の手前ニ召置申候へ
 ハかさなり候て其者も出し兼申筈ニ御座候、通最前得御
 意取集置申候、然は本座・新座両所ニも相應程預置候
 ハヽ、座之為ニも能可有御座と被思召て被仰聞候ニ付、
 私共として座中之頭立たる者ニ申聞候得は、公儀之銀子
 預り申儀大事ニ奉存候間、理申候間右之銀子御奉行所得
 差上可申哉、今迄之ことく御町ニ召置慥成者ニ五年・三
 年ツヽニまわして預ケ置申候様ニ可仕哉、得御意候事
     「可然思召之候間嘉申付旨被仰付候也」
一御町ニ居申候くすし了寶玄起儀、町くすし御用之時方々
 被召仕候ニ付、前々より軒役御赦免被成候、玄昌・甫庵
 抔切々御用之儀申付候、玄昌ハ去年天草・鶴崎へ被遣候
 時、軒役をも引候て遣候へと被頬説懸、三年已前より御
 赦免被成候、今三人右之者共並ニ軒役御赦免被成召仕御用
 之時まわり/\申渡候様ニ可仕哉、得御意候事
     「右同断」
一町籠ニ被召籠候國人共切々煩申候ニ付、くすしを付申候
 時、籠屋近所之くすしニ申付候、何も御用之儀ニて御座
 候得共、籠屋ニハ参兼申候、切々此御用を申付、せいを
 出し候くすしには、折々私共より薬代をも相渡候様ニ御
 座候ハヽ、一入精を出し可申と奉存候、御町々ニ當時々
 々之過怠銀抔少宛集り候て御座候をはからひ候て可遣候
 哉、得御意候事
一長六橋之向側、下之方之河へり四五間程の間、明地御座
 候、今迄はむかふがわ計ニてかた原町ニて御座候を、川
 へり四拾間程之分御借被成被下候ハヽ長屋作りニ家をた
 て、もろ町ニ仕あきなひを仕度奉存候由御町人共申候、
 此儀は去々年御寄合被成候時得御意候得共、道筋せまく
 成つかへ申間敷候ハヽくるしかるましく候と被思召候旨
 被仰聞候間、相尋申候處ニ少も往来閊(ツカエ)申様ニハ仕間敷候
 由申候、今度又右之通申上候、如何可有御座候哉、得御
 意候事
   已上
   七月五日             國   津
                    吉   傳

 二四九
  萬治二年七月五日式部殿へ頼母殿・當けん物殿・御奉
  行御集候所ニ得御意候、告書随分返辨可申付候由被仰
  候也
   覺
一大坂町人河尻へ酒樽を持下り、爰元之町人ニ賣渡申候、
 買申候町人手前ひつはく仕候ニ付代銀濟シ不申候故、樽
 主熊本へ罷出、町奉行共迄申理と可申候由、河尻町奉
 行より私共方へ被申聞候ニ付て、買主ニ何レ之道ニも埒
 明申候様ニ申付候得共、ひつはく仕候故代銀拂兼申候、
 小家をも持たる者共ニて御座候間家をも賣せ候て成共相
 濟申候様可申付候哉、得御意候事
一御家中侍衆之米を當町人共買申候て代銀いつ切ニ相渡可
 申と書物を仕受人を立、米を受取下ニて寄合四五人にて
 わけ買申候、人數之内壹両人も手前ひつはく仕候ニ付代
 銀滞申候、米主よりハ書之判形と受人と両人之外ニは
 米を渡たる相手無之候間、やくそくのことく判形人より
 代銀出させ下ニてわけて買申候者共之内ひつはくの者共
 は、家をもうらせ候て成共取込申候分之代銀を判形人え
 もとさせ可申候、得其意候事
   七月          町奉行
  御老中ニ伺申候覺書       吉住傳右衛門
  寛文三年七月          國友半右衛門
                  中村市郎右衛門

 二五〇
   奉得御意候
 此旨書之通最前口上ニて御老中へ伺申候、一段尤ニ被思召候旨
 二て其已後
一御町中別當役仕候者共之内、殊之外病者御座候か、又身
 代をひしと不罷成御用相勤申儀成不申者共迄断を申、其
 外預り之町内をもしめかね申者も御座候間差除、餘人可
 申渡と奉存候事
一私共え被為付置候歩之御小姓幷十人與之者共ニよらす、
 町共ニなしミ不申様ニ常々申付候、左様之覺悟無之者共
 差替可申と奉存候事
一御町中別當之下ニ、町頭と申候て大小町ニよらす両人宛
 別當共として仕立召置、町内之取次を申付候、町ニより
 丁頭無御座候て通り申候も御座候、今迄町頭御町中ニ百
 三人、此者とも御町役をも町内よりゆるし召置申候、約
 儀等もわきの者ともかぶりニ成申候、其丁頭ニ付、下ニ
 て出入御座候通承付申候丁頭無御座候て不叶儀ニ御座候
 ハヽ、一人宛申付候様ニ可被仕と奉存候事、以上
   寛文三年七月廿九日    町奉行

          (了)

 

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■重賢公と山縣大貮

2018-02-22 09:26:28 | 歴史

 嶋田嘉津次という人がある。「名は貞孚、嘉津次と称し、撫松と号す。幼より聡明なる上に刻苦勉励しければ才名漸く高し。後身を藩政に致し家老職兼大奉行となる。禄千弐百石。宝暦の改正を成就するに最力あり。文政二年十月二日没す。年六十五。墓は本庄静安寺。」
文化十二年七月、時の藩主齊茲公の乞うところにより、先の大奉行で宝暦の改革の立役者・堀平太左衛門の業績について書き残している。

「堀殿行状」と呼ばれるものである。ご紹介する史料は上妻博之先生の書写によるものである。(上妻文庫)

これはそのほんの一部分である。
   
        重賢公ニ平太左衛門御不遇と申たれは山縣大貮と申者投文之
        砌之儀に而御平常を御変化之御内宴等初り候時分之儀と
        承り申候是は御晦迹之御深慮二而有之候由(以下略)

この文章は重賢公の生活が少々乱れた時期を説明するため、それは山縣大貮が御屋敷に投文をした時期だとしている。
晦迹とは姿をくらますこと。 世を逃れて人に知られないようにすること。」とあるから、何らかの理由でそういう振舞をされたという事であろうか。それは山縣大貮の事件がからんでいるのだろうか?
「明和事件」とよばれ、幕府に対する謀反などの罪で大貮等は処刑(明和四年八月廿二日)されている。

大貮は重賢公に何を伝えようとしたのか、内容を知りたいところだが、資料が見えない。

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