上天草に出かける途中、道の駅「宇土マリーナ」で一休み、今日は大変良い天気で暖かくマリーナの方へ足を向けると、海の向こうに普賢岳がそびえている。
1991年5月の大火砕流からもう27年もたつが、山頂の異様な形が今も当時を思い出させる。
今は穏やかな状態を写してみました。
松下述久について綿考輯録は、「従五位下、禁裏ニ勤居タリ、鞠歌ノ御伽トシテ、幽齋君御懇ニ有之」と紹介し、忠興が盟友曽我丹後守妹を養女として、述久の子松下掃部助(後・河方安右衛門)に嫁がせている。この優遇ぶりは何なんだろうか。
綿考輯録は、「或記に松下民部少輔述久 古今箱禁裏に持参仕候由 田辺御出城の刻も御忠節申上候と云々 何もいふかし」と記載している。田辺城開城に関する述久の忠節とは、果たしてどのようなものであったのだろうか。時慶記の慶長五年七月廿五日の項に「・・・八条殿(智仁親王)ヨリ御使(大石)甚介来、門ニテ逢、松下民部少輔(述久)○○○○上洛珍重申述候・・・」とある。このことが、田辺城開放についての事とは断定できないが、述久が八条宮智仁親王の下で動いていることが分る。同七月十八日項は「長岡越中女衆(ガラシャ夫人)ハ昨夜自殺・・・」とし、十九日は「・・・丹後国ヘモ功(攻・人数)衆越由申候・・・。・・・丹後義ヲ無心元旨申候、同也足(中院通勝)ヘモ以使者申・・・」と心配し情報交換が行われている様子が伺える。廿四日、「八条殿(智仁親王)へ徳善院(前田玄以)云伝被申儀申入、御盃給、也足(中院通勝)へモ遣人、対談候・・・」そして前段の松下民部少輔の動きである。九月三日項には「丹後へ幽齋(長岡藤孝)扱ニ日野大納言(輝資)、中院(通勝)、富少(秀直)同心ニテ下国也・・・」これらの人たちは九月廿一日「丹後ヨリ上洛ト、遣使、飛鳥井預使、又此方ヨリモ祝着ノ旨申遣候」とある。禁裏方の尽力により、田辺城が開城されたことが伺える。述久もその一員として走り回ったのであろう。
あちこちの戦いの終息が見えた、慶長五年九月には八条殿(智仁親王)の元で蹴鞠が催され、幽齋も出席し、述久は御次を勤めている。
十月十九日には也足軒(中院通勝)へ寄合、「源氏講在之」ここにも述久の名前が見える。
この年の末、細川家は慌しく新しい領地豊前へ旅たつことになる。