津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(469)寛永七年・日帳(一月十五日~十六日)

2021-01-25 13:25:47 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永七年一月)十五日~十六日

         |                        
         |    十五日  加来二郎兵衛
         |
元田彦丞家来走リ |一、元田彦丞召遣候者、浅山修理抱申候御鉄炮衆ノ内ニ罷出居申候処ニ、彦丞ゟ修理方へ去年被相届候
而浅山修理ノ鉄炮 |  ハ、私召遣候者にて御座候、大分ノ科人ニ而御座候間、返被下候様ニと被申候、其折節、江戸へ御
足軽ノ中ニアリ  |  供ニ罷上居申ニ付而、罷下候ハヽ、其上にて承届可申付由、返事申置候、今度江戸ゟ罷下候ニ付、
帰属ニツキ交渉  |  則暇を遣、此段彦丞方へ申届候処ニ、彦丞登城ニ而被申候ハ、右之者返被下、忝存候、何とそと
ソノ処理     |  らへ候て見可申候、若何角申候ハヽ、打果可申候間、其心得可仕由被申候、此方ゟ返事申候ハ、
         |                   (軽)
         |  御構在之由ニ付、暇を遣申候、科ノ経重不存候間、いかやうニ可被成も、此方ゟとかくノ儀もハ
         |                                           〃
         |  難申候、ともかくも御分別ノ上たるへく候由、申渡候也、
女出切手     |一、古川源内方被上候ニ付、女出切手ハ河田八右衛門ニ渡ス、
医師北村作雲帰国 |一、北村作雲・上田忠蔵、両人江戸ゟ被罷下候事、     

         |                        
         |    十六日  奥村少兵衛
         |
         |一、古川源内興被罷上候、御船頭は乃美十左衛門尉、寺嶋主水所へ之状壱通・京都へ之状壱通、又
         |                   文箱壱つ (長沢顕長室、沼田清延女)  
         |  式ア殿ゟ小田豊斎・同與右衛門所へ之状壱通、伊与殿ゟそうしゅいん殿へ之文一包、松や九郎兵
諸方ヘノ書状ノ請 |                   〃〃〃     (宗珠院)
取        |  衛ゟ京都三人衆へ之状壱つ、慥うけ取申候、     乃美十左衛門(花押)
         |                                          靏打申
大里ニ鶴すはるモ |一、寺尾左介与茂右衛門尉と申もの申来候ハ、内裏ニ靏すハり申由、百性注進申来候、此中私〇御
鶴打ノ御印返上  |  印請取、彼方ニて百性共ニ申置候ニ付、私所へ申来候、はや 御印も上申ニ付而、如此候由申候
         |  間、靏被打候衆二急度可申渡也候へと、申付候事、
         |            〃  〃
         |  (規矩郡)
鴨罠ニ鴨一ツモナ |一、志井村にて、鴨わなさし申候御鉄炮衆登城にて申候は、鴨一節とれ不申、わなさしいたつらニ
シ 罠ヲ上ゲシム |  罷居候而、賃米を取申候、如何わな上ヶさせ可申やと、申候間、早々あけさせ候へと申渡候也、
明寰薬種購入ノ代 |一、明官、江戸にて薬種かい申代銀百九十七匁滞、 殿様御上洛之刻、御供仕、罷上儀成不申ニ付、
銀滞リ上洛ノ供成 |  立 御耳、御銀御取かへ被成、被遣候を、爰元にて御ふち方ノ内を以引取候へと、かし方奉行衆
リ難シ ソノ処理 |                        (国遠)    (豊岡)(粟野)
         |  へ申渡候、さ候て、江戸ニて右銀うけ取人之切手、道倫被持下候を、甚丞・伝介ニ渡申候、此切
替奉行      |  手江戸へ不遣候ヘハ、江戸衆銀払之算用成間敷候間、江戸之御さん用通り候様、かへ切手遣可被
         |  申由、少兵衛を以伝介・甚丞ニ申渡候也、
         |            (加藤) (金子)
古川源内知行目録 |一、古川源内知行之目録、新兵衛・喜左衛門へ、少兵衛を以渡候事、
惣奉行書院ニテ朝 |一、今朝修理・兵庫ニ、御書院ニ而御食被下候、忝 御諚中/\難申上候事、
食ヲ給ハル    |
         |                                (藍島、規矩郡)
鉄炮足軽へ鶴打ノ |一、寺尾さ介与広津茂右衛門ニ 御印、新兵衛・喜左衛門ニ相渡させ、あいの嶋へ靏打ニ遣候、但、
御印ヲ渡シ藍島へ |  明日渡し申筈也、
遣ス       |
         |   (辺ヵ)
         |一、田■作右衛門靏壱つ打申候事、
江戸へ飛脚    |一、江戸へ被遣御飛脚弐時と、乗せ上り候御船頭ハ田辺長介、六丁立ニ八丁立申由、申候也、
三斎へ鶴ヲ上グ  |一、三斎様へ靏被成御進上候、持せ上ヶ申御小人、源三郎与助作・弥左衛門与五郎介両人也。上ノ遣
         |  銀ノ外ニ、余慶ニ四十め渡遣申候也、但、明日出船仕筈也、
         |  (元信)室、細川興秋女なべ
忠利南条元信邸ニ |一、南条左衛門尉殿江御申在之事、
臨ム       |
         |                  (三淵重政)
鯨ヲ見物     |一、南条殿ゟ、直ニくしら被成御覧ニ、右馬佐殿わきへ被成御座候事、

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■小崎五郎左衛門宛忠利書状

2021-01-25 07:33:55 | オークション

          細川忠利筆 小崎五郎左衛門苑書状 肉筆紙本掛軸(陽明文庫小笹喜三箱書

             

 小崎五郎左衛門の見廻に対する礼状である。それにしては大変丁寧な長い文章である。
この人物については判らないことが多い。以下にある消息文から寛永16年(1639)7月に、「四十人扶持」という好待遇で召出されている。9月には、1,000石の大身となった。
忠利は18年(1641)3月にはなくなっているから、わずか2年の間に書かれた書状である。

そして明暦元年(1655)には御隙となって居り、わずか16年の細川家との縁である。
他の資料を紐解くと面白い事実が見える。
細川家には赤穂浪士で討ち入りに参加した堀部弥兵衛の兄・次郎左衛門が召出されているが、その召出しはこの小崎五郎左衛門が関係しているが、次郎左衛門の妻が五郎左衛門の姪であるらしい。
正保四年の事だとされる。熊本の堀部家四家

大変な実力者であったことを窺わせるが、五郎左衛門の仕官のいきさつなどは、史料不足でなかなか近づけないでいる。

       ○ 小崎五郎左衛門  御鉄炮頭衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
               千石 (真源院様御代御侍免撫帳)
               千石 明暦元年八月 御暇被遣候 (※)
      消息:熊本縣資料近世編第二p467
          被仰上可被下御印之?
         一 四拾人扶持ハ    小崎五郎左衛門
         一 八人扶持ハ      小崎三右衛門
          右之五郎左衛門・三右衛門新参ニ被召拘候寛永拾六年七月廿二日御禮
          申上候右之日帳より御扶持方被為拝領候御印之儀仰上可被下候以上

      消息:
         小崎五郎左衛門・同三右衛門・速水助兵衛此三人新参ニ召置候
         五郎左衛門千石・三右衛門弐百石・助兵衛六百石遣候筈候間当
         物成之分ハ家中へ遣候知行並のことく蔵米ニ而可相渡候 謹言
            (寛永十六年)九月七日     越 忠利 御判
                        西郡要人佐殿
                        浅山修理亮殿
                        河喜多五郎右衛門殿
                        椋梨半兵衛殿 

                               (綿考輯録 忠利公・下 p289)

 肝心の読み下しは、今からである。

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