史料としては見出し得ないでいるが。細川家の熊本へのお国入りなどでも、多くの人や荷物が小倉から海路で川尻へ入ったことであろう。
高橋から熊本城下・船場あたりまで入り込んだのかもしれない。
参勤の為の藩公の御召し舟「波奈之丸」は豊後鶴崎に留め置かれていたようだが、大廻して川尻にも来航したことであろう。
天草島原の乱や正保四年のポルトガル船の長崎来航にあたっての出兵の際は、鶴崎から回航した船を含め、川尻の湊は船の出入りが煩雑であったらしい。
某家の史料を読むと、長崎警備にあたる12,000人ほどの先陣を切ったのは沼田勘解由であったらしいが、熊本に於いて家老をはじめ重役の見送りをうけ、川尻に赴いている。
その折の事に「紺地に大葉大根」が描かれた帷子を着た船頭が迎えたと書かれている。
以前、靏崎の舟歌について書いたことが有ったが、平常においては川尻に於いても、華やかに船頭衆の舟歌が流れていたのかもしれない。
戦時に於いては多くの侍や物資を運び、狭い港はごった返したことであろう。
今はかすかに往時をしのぶ湊の雁木あと等が残るが、静かな川向うは船頭衆の集住の地が有った。
歓楽の地もあったと伝えられている。一時代を期した川尻の地は、高祖父上田久兵衛が免罪を被り斬首された因縁の地でもある。