薮家記に於いては(3)で記した如く、内匠の三男・三左衛門が大坂夏の陣による高名により二千石を領したとある。
家記には清田七助に続き、二番目の高名としているが、細川家記に於いては清田七助・村上景則に続いて三番目と記されている。
そんな三左衛門だが、よく理由が判らないが「■藪三左衛門の召し放ち」という事態が起きた。
奇しくも元和十年(寛永元年)の今日、三月五日の記録が残っている。三左衛門は紀州徳川家に仕え3,000石を領したという。
大坂夏の陣に於ける高名を以ての再仕官であろうが、砂をかむ思いで細川家に於ける10年余を振り払って離国したのだろう。
なにかしら三斎の御機嫌を損じる言動があった物だと推察されるが、細川家記は明らかにしていない。
或記録に御座候ハ慶長五年九月十四日朝五ッ時分ニ青野か原之御衆御目見と御出被成候 然は中村式部少輔殿衆近邊江か
り田ニ出申候を大梯より追拂申候所を式部少輔殿衆取合大梯之敵を追込申引取申候得は大梯之敵付申候 又追込引取申候
得は敵又付申候ゆへ敵わかれ成兼申候所を 家康公御覧被成被仰付候ハ主なし故ニ敵わかれ不仕候井伊兵部殿・本田(多)
中書殿江御出ニ而敵分仕を可申旨被仰付御両人御乗出しニ成内ニ敵分仕候故御両人本陳江御帰候 扨明日の御働如何可被
仰付と何も被得其意候得ハ無別儀御合戦ニ而候 可有其心得と被仰出候 何も被得其意ニ而暫御咄之内ニ式部少輔殿衆御前
江被召出明日ハ合戦被成候間大梯之押御頼被成旨式部少輔殿御舎弟彦左衛門江被仰付彦左衛門御請申立可申と仕候時薮内
匠御幕之外ニ居申候か幕を打上彦左衛門待可申候 太閤様御代御先手仕式部少輔と世間ニしれ申候も皆共かせき申ゆへに
て御座候 式部少卿楚相果申共皆共罷在候上は先手可被仰付と如何にも目高ニ急度申上候 ■御挨拶御座候得共主なしニ而
御座候間如何様ニ成共不苦候と申様躰無心元様ニ忠興公思召兵部殿ニ被仰候は主那し無紛候兎角御あいさつ被成可然と
被仰候兵部殿尤之由被仰此押江一大事之由ニ候間忠節不過之こと被仰含ニ付式部殿衆心よく請合申候 是は他家之覚事ニ御座
候 其侭ニ而書載申候
一其後内匠中村家を立退候は式部少輔殿御卒去之後中村一学殿伯耆国ニ御座候時之事と相聞候 家老横田内膳守ら我意をふ
るい申ニ付内匠も不和ニ成候 ケ様之事ゟ内匠も立退候趣ニ御座候 其後市学殿右内膳を被手討候 一学殿後ニ伯耆守殿と申候早
世之由御座候
一内匠牢人ニて京都邊江罷在候節中村家中を立退候右傍輩等之者共多は内匠をしたい居申牢人頭之様ニ而罷在候 其砌三斎
様豊前国被召出壱万石領し其後弐千石を領し都合壱万弐千石ニ而御座候 豊前江参上之年月未詳
一大坂夏御陳之節三斎様ハ海上ゟ御手廻り迄ニ而早々大坂江御着候 内匠三男三左衛門も此御手ニ而戦功御座候 古越中様ハ
中国路を御押ニ而内匠も御供ニ而御座候 備前国ニ而大坂早落城之由参来御座候
一大坂戦労の穿鑿を三斎様内匠江被仰付吟味仕候 清田七助壱番ニ馬を乗り出故ニ第一とす 内匠子の三左衛門其次とす 三
左衛門一生の威言等鑓も一番是を取子共第一といわれし由 其砌
家康公江御目見申上候 豊前国ニ而弐千石を領す 三左衛門とられし是ハ根来衆之事之由委細はご存知之事故略申候
一此後天下一統大平ニ而候故内匠此方ニ而之武功無御座候