いわゆる家記は多いに気をくばり忖度の上に書かれているから、例えば綱利の養嗣子・宜紀の子沢山などについても、「迷惑な事」等とは書かないが、財政上からすると大いに迷惑であったことは間違いない。
宜紀は養父・綱利の弟・利重(新田藩主・35,000石)の二男・利武である。綱利から5,000石を拝領していた。
大変不思議なのは宜紀は正室を迎えていない。
5,000石取りの優雅な次男坊は、宗家を継承する正徳2年(1715)11月までに6子をなしている。処が不幸なことにすべてが夭死している。二人の側室、與幾・際が産んだ子である。
その後も際を含め五人の側室が14人の子を為しているが、養父・綱利が二人の男子が有りながら成人前に死去し、無念な思いであったことを大いに理解しているように思える。
際は嫡子となる宗孝(7代)を産み、利加 は重賢(8代)を産んだ。又佐衛 は16子の紀休、 民は20子・興彭(刑部家‐長岡図書興行・養子)を産んでいる。
宗孝が江戸城中で不幸な死を迎えたものの、弟・重賢が急遽後を継ぐとともに破綻状態にあった財政を、宝暦の改革により見事に脱出せしめたことは周知のことである。
考えて見ると宜紀は、宗家をリリーフ役として相続したが、宗孝の不幸な死ををも見事乗り越えるための子作りをしていたことになる。
女子については4人が大名家、4人は細川家の重要家臣に嫁がせている。この辺りにも随分気配りが見えて面白い。
女好きの殿様との評価は取り下げずばなるまいと思ったりしている。
※小田野太郎左衛門女 與幾(ヨノ)
1子 男子・竹之助(夭折・三歳)
3子 女子・亀(夭折・六歳)
5子 女子・春、名世(夭折・五歳)
6子 男子・萬次郎(夭折・一歳)
※鳥井氏女 際
2子 女子・蔵(夭折・六歳)
4子 男子・八三郎(夭折・六歳)
8子 女子・富(夭折・三歳)
10子 宗孝(七代)
12子 禰々、喜和(宗対馬守義如室)
14子 照、三千、千代(安藤対馬守信尹室)
21子 男子・龍五郎(家老・木村半平豊持養子・夭折三歳)
※姓氏不詳
7子 女子・村(夭折・三歳)
※安野氏女 民
9子 女子・勝(夭折・三歳)
11子 八代、花(松平讃岐守頼恭室)
17子 衛世、悦(長岡助右衛門是福室)
19子 津與(小笠原備前長軌室)
20子 興彭(長岡図書興行・養子)
※岩瀬氏女 利加
13子 重賢(八代)
15子 豊、常、岑(織田山城守信舊室)
18子 幾、常、成、軌(細川大和守興里室)
※友成氏女 佐衛
16子 紀休