家傳覚書
薮内匠ハ幼名才松と云 後ニ弥次右衛門 又後に内匠頭正照と云 諸軍記等に出る所の名乗まち/\なり 時々に替りしにや追而可考
生所ハ山城国伏見薮か谷ニ而候 伏見ゟ大和路へ行有之由 薮の下とも薮か里ともあり追而可考 傳来ニ内匠父ハ薮か谷の谷頭也 其近辺に八
谷ありて皆谷頭ありしと也 八谷の各一々覚不申候 その内郡谷の頭郡何某 余田谷の頭余田何某此等之子孫も今以此方ニ勤仕申候 乱世の折柄に
て父ハ討死家人も没落いたし内匠壱人■原之中ニ捨られさまよい居候を相知候所之者打寄候而薮某か子とてあわれミ多
いに養育し盛長ゐたし候内匠孤になり候時は七歳の時と申つたへ候 或九歳の時共云
一内匠十七ハの時分米五石の奉公ニ有付申候 段々ニ仕上此間のかせきの様子委敷傳り不申候
一中村式部少輔殿御家にて内匠千六百石を領シ足軽三十人預る此時弥次右衛門と申之由 此儀新参之砌は山中の城乗より前之事歟未
詳候追而可考
一太閤様御代毛利家と御取合候時に薮弥次右衛門鑓合之高名有之事織田軍記等ニも出居申候 此砌より名顕ハれ候歟 天正十
年の比なるへし 此儀諸軍記等出居申候故具ニ記不申候
一天正十三年九月廿四日中村式部少輔殿より内匠江二千九百石の折紙給候 左ニ記之
一同十八年の比豆州山中之城(戦)一番乗之事外向は渡邊勘兵衛壱番ととなへ内所は内匠壱番ととなへ申候 勘兵衛ハ其節
使者ニ而五百石なり 差物ハ鳥毛の半月その長サ一間半有之由山之峯の尾を輪■ニ而乗上り候ニ付太閤様御陳所より分明
に見江申候 内匠ハ谷筋をのほり城に一番ニ着 首も弐ッ取候へ共物陰二て候故あラはれ不申候 太閤記ニハ勘兵衛壱人はた
らきの様子事々敷出居申候 其後両人とも壱万石の身上と成申候由 此儀其砌中村家之沙汰此方之家中なとニてハ今以内匠はたらき存
候得ともあまねくハしれ不申候 然処に近年武■感状記ニ此事を書出申候 百年之後其実あらハれ冥加と被存候
又一説に承傳候は右之褒美は内匠も勘兵衛も三千石宛之由 但内匠此節先知行知合六千石ニ成候よし 且又其節勘兵衛へは
土田三千石 内匠江は物成之侭三千石給候 就之勘兵衛不足と中村家中を立退申候 其節内匠為暇乞途中迄出申一通会釈之挨
拶終かたみのりかわしり可致とて内匠よりハ長刀勘兵衛ゟハ其節差候脇差とり替シ候 何も馬上ゟぬき身にてとり替し候
由
一関ケ原御陳之節中村式部殿病中ニて為名代弟彦左衛門殿出被申候 相従ふ者共ハ川三木備前・野■頼母・武田又六・近藤
左近・薮内匠 此比ゟ匠殿と申候歟 諸傳記等も如此 其砌関ケ原にて蜂須賀彦左(右)衛門様・福島左衛門大夫様・細川越中守
様 後ニ三斎・丹羽左京様其外五六人御列座ニ而 家康公御軍法之御様子御評定之由ニ御座候 左候而彦左衛門殿江被仰渡候
は今度式部少輔病中ニて不被罷出候間御先手役之儀大事之由ニ候間余人ニ被仰付候ト有之彦左衛門殿 上意之趣奉得其
意御受被申上候 其後備前・頼母・又六被召出彦左衛門殿江被 仰渡之旨御申儀何も退出致候 其砌内匠は若輩者ニ付罷出
不申候 右之様子承之無是非仕合と存何も被成御座候所ニ罷出申上るは今度式部少輔病中ニ付為名代弟彦左衛門儀先手を
指替御請申其外家老共同前ニ奉存候段無是非奉存候 従前も御先手役被仰付置候ニ式部病中ニ而罷出ず候得共家老備前何
も参り居申候 乍憚
家康公御軍法之儀能承覚申者ニ而呉座ニ付明日の一戦之節別ニ相替儀無御座候 然処御先手を被差替候段可仕様も無御座
候帰陣之上式部江可申聞様も無御座候間私ハ組共合戦死之覚悟ニ相究申候 然上は被仰付御軍法ニ相背申儀も可有御座候
間右之段各様江前以御段申上候 其時暫相待可申由ニ而御引留被成候 其後如前之式部少輔殿備頭共江も御先手被仰付候旨
何も被仰渡候ニ付忝由申上退出仕候 此儀諸軍記等も略相見へ申候 尤記録等ニも出居申候 申傳右之通ニ而記録とハ少々違御座候 此段ハ追而
考可申候 右之節之帰り三斎様御感心之由申傳候 右武田又六ハ此節討死之由系圖ニ有之又六ハ氏子歟